ロベルト・クレメンテのDNA〜受け継がれる魂 (全10回/第6回)
昨年末、ロベルト・クレメンテのツールを探る旅に出かけた中日ドラゴンズで通訳を務める加藤潤氏。今回訪れた先はニカラグア。この国への救助の途上で命を落としたクレメンテは、この地で今も"人としての模範"として生き続けている。
【ニカラグアでは背番号21は永久欠番】
ニカラグア野球連盟会長のネメシオ・ポラス氏に会うと、私はカロリナを尋ねた際に聞いた、ニカラグアの子どもたちがクレメンテの故郷を訪れた時に涙を流したエピソードを伝えた。
「なんといってもクレメンテはこの国の英雄だからね。彼は我々ニカラグア人を助けようとして飛行機事故で亡くなった。文字どおりの英雄であり、人としての模範なんだ。そのことは学校だけでなく、家庭でも教えられているよ。それに、ニカラグアでは背番号21は永久欠番なんだ。すべてのリーグでそうだよ。プロのチームだけでなく、ナショナルチーム、そして少年野球でさえもね」
少年野球でも永久欠番にしているという徹底ぶりには驚いた。MLB全球団で永久欠番となっているジャッキー・ロビンソンの42番を、学生野球で欠番にするかどうかの議論が続いているアメリカの先を行っているではないか。
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また、現在はパイレーツのみが欠番としているクレメンテの背番号21を、MLB全体で永久欠番にすべきだという意見が、特にラティーノを中心に出ている。彼の出身地であるプエルトリコでは、2016年にウィンターリーグの全チームが、そして2023年にはプロ・アマ問わず野球とソフトボールの全チームで永久欠番となった。クレメンテの功績を鑑みると、今後、他の地域にも広がっていく可能性は十分にあるだろう。
「彼はニカラグアに惚れたんだよ。世界大会でこの国を訪れた時からね。クレメンテをひと言で表わすなら、『人間としてのあるべき模範』だね。アメリカやプエルトリコ、ニカラグアだけでなく、全世界の人々にとっての模範だ」
カロリナの球場では、藤浪晋太郎から野球選手としてのクレメンテについて説明を受けた。そしてポラス氏は、人間としてのクレメンテを定義した。どちらも申し分ないものだろう。
「私の今後の目標は、この国のすべてのスタジアムに21番を掲げることだ。そうあるべきなんだよ」
【背番号21が見守る新球場】
じつはポラス氏の話を聞く前日に、彼の目標の一部がすでに達成されている球場を訪れていた。マナグアの南、約30kmに位置するマサヤ。この町に一昨年オープンした新球場、『ロベルト・クレメンテ・スタジアム』のスコアボード脇には、背番号21のユニフォームの絵が掲げられている。
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球場内の一角に小さなギャラリーが設けられており、そこにはクレメンテの遺品の一部と、彼の家族写真が展示されている。写真には、パイレーツのユニフォームを身にまとった3人の幼い息子と、その隣で笑顔を見せるクレメンテと妻のベラの姿が写っている。
また、「我々は貴方の遺産の一部です」というメッセージとともに、尾の長いカワセミのようなニカラグアの国鳥、アオマユハチクイモドキが描かれている。
この球場の見どころは、クレメンテにちなんだ内部だけではない。駐車場からの眺めはまさに圧巻で、まるで箱根の外輪山から芦ノ湖と中央火口丘を望むかのような大展望が広がっている。それも当然で、この球場はマサヤ火山のカルデラの縁に位置している。
日本からは太平洋を挟んで遥か彼方に位置するニカラグアだが、環太平洋造山帯の一部を成している。つまり、日本と同じく地震と火山の多い地域だ。英語で「リング・オブ・ファイア」と呼ばれるとおり、この土地が自然災害と隣り合わせであることが実感できるだろう。この絶景を生み出した土地が、地震を引き起こし、クレメンテの命を奪ったというのは何とも皮肉なことだ。
【伝説の生きるマスコットに遭遇】
試合前、観客が入る前のスタンドへ足を運んだ。クレメンテの背番号21のユニフォームの前で、NPBの4球団を渡り歩いた藤岡好明がウォームアップする姿を眺めていた。開場前にもかかわらず、スタンドで腰を下ろすおじいさんの姿が目に入り、思わず声をかけた。地震発生当時の体験談を聞ければと思ったからだ。
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ところが、私のスペイン語力不足なのか、それともおじいさんのご高齢のせいか、名前すら聞き取ることができなかった。あきらめて近くにいた警備員に尋ねると、「クロドミロ・エル・ニャホ」だよと教えてくれた。
「えっ、ひょっとしてサンホセで出会った兄弟が話していた"生きるマスコット"の方?」
警備員は続けて言った。
「彼の本名は何だったかな? 本人も自分のことをクロドミロと呼んでいるよ。じつはこの国の有名なバンドが彼についての歌をつくっていて、その曲が球場で流れるんだ。もちろん彼もその場にいて、ファンもノリノリになるんだよ」
ちなみに、スペイン語で「ニャホ(ñajo)」とは「鼻声で話す人」という意味だ。ああ、それならば、私が彼の言葉を聞き取れなかったのも仕方がないのかなと、そう自分に言い聞かせた。
ひとりの年老いたファンが人気バンドの歌になる──ニカラグアで野球が文化として根づき、国民に深く愛されていることの証だろう。
「ニカラグアに来たら連絡をちょうだい。必ず案内するから」
そう言ってくれたロナルド・メドラノとの再会は、今回は叶わなかった。メドラノはメキシコのウィンターリーグで活躍しており、帰国予定が延びていたのだ。彼にとってはうれしい誤算であり、元同僚として、私もその活躍を心から喜んでいる。
もしドミニカ共和国でのあのひと言がなければ、彼の母国を訪れることもなく、この連載を思いつくこともなかっただろう。今の自分へと導いてくれたメドラノに、心から感謝している。
12月23日、隣国ホンジュラスを目指し、国境行きのバスに乗り込む。この日は、ニカラグアにとって52回目の震災記念日。そして、クレメンテの命日は8日後だ。
つづく>>
ロベルト・クレメンテ/1934年8月18日生まれ、プエルトリコ出身。55年にピッツバーグ・パイレーツでメジャーデビューを果たし、以降18年間同球団一筋でプレー。抜群の打撃技術と守備力を誇り、首位打者4回、ゴールドグラブ賞12回を受賞。71年にはワールドシリーズMVPにも輝いた。また社会貢献活動にも力を注ぎ、ラテン系や貧困層の若者への支援に積極的に取り組んだ。72年12月、ニカラグア地震の被災者を支援する物資を届けるため、チャーター機に乗っていたが、同機が墜落し、命を落とした