コスタリカの避難民兄弟が語った野球文化への誇り 祖国ニカラグアに今も息づくロベルト・クレメンテの精神

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2025年07月18日 10:10  webスポルティーバ

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ロベルト・クレメンテのDNA〜受け継がれる魂 (全10回/第5回)

 中日ドラゴンズの通訳として選手を支える傍ら、野球と社会をめぐる旅を続ける加藤潤氏。昨年末、ロベルト・クレメンテのルーツを探る旅に出かけ、プエルトリコからコスタリカ、そしてニカラグアを訪問した。そこには、政治的弾圧を逃れて隣国へ避難した若者との出会いがあり、知られざる野球文化との邂逅があり、そして"クレメンテイズム"を体現する人々の姿があった。

【政治的弾圧を受けコスタリカへ】

 プエルトリコ訪問を終え、パナマシティを経由してコスタリカの首都・サンホセに到着した。ニカラグア南部へはこの街から夜行バスで向かうのが手っ取り早く、治安があまりよくないと聞くニカラグアの首都・マナグアを避けることもできる。

 経由地のパナマシティでは、中日ドラゴンズの同僚であるウンベルト・メヒアとブランチをする約束をしていた。しかし、彼の急な体調不良により食事はキャンセルとなってしまった。外国人選手の地元で再会できることを楽しみにしていたが、こればかりは仕方がない。バスターミナルの外で気分転換にコーヒーをすすっていると、ひと組の兄弟と知り合った。

 ジョバンニとジョルディのクルス兄弟だ。彼らはニカラグアで政治的弾圧を受け、コスタリカへ避難してきた。住んでいた町が反政府勢力とみなされ、軍隊に襲撃されたという。家族は離散してしまった。この日は、ニカラグアに残るおばあさんが彼らを訪ねてくるため、彼女の乗るバスの到着を待っていた。

 兄のジョバンニが、避難する前後のいきさつを語ってくれた。

「ある時、警察や軍隊がやってきて、すべてを破壊していった。すべてだよ。僕は25歳で、弟は15歳だった。母はニカラグアで看護師をしながら大学でも教えていた。僕は医学生だった。それが突然、難民となってこの国に逃げ込んだんだ。この国に来た当初、僕は建築現場で働き、母はベビーシッターをしながら生活をやりくりしていた」

 2018年以降、ダニエル・オルテガ政権の弾圧を恐れたニカラグア人が難民としてコスタリカに押し寄せた。

 クルス兄弟のように隣国で生活を立て直した人もいるが、今なおニカラグアとの国境周辺には難民キャンプが設置されている。そのキャンプの支援、運営するのは、コスタリカ政府とUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)だ。

 村上雅則氏が継続して送っている義援金の一部が、この地の避難民に届いていても不思議ではない。寄付されたお金が、クルス兄弟のように自立を目指す人々の助けとなることを願うばかりだ。

【ニカラグアは野球が国技】

「こうして『中米のスイス』と呼ばれるこの地にやってきたわけだよ。でも、やはりスイスの物価は高いね」

 血生臭い内戦に苦しんだ過去を持つ中米諸国のなかで、コスタリカは例外的に政治的安定を享受している国だ。非武装中立を宣言した民主国家であり、そのため「中米のスイス」と称されている。

「避難先となった"中米のスイス"の物価が高い」という冗談で私を笑わせようとしたのだろうが、彼らの経験した過去を聞いたあとでは、素直に笑うことができなかった。

 しかし、彼らが語ってくれた話は辛い過去ばかりではなかった。私がクレメンテにまつわる場所を巡るために彼らの母国を訪れる予定だと伝えると、知らなかったニカラグア野球の奥深さについて話してくれたのだ。

 ニカラグア野球の歴史上、ナンバーワンのホームラン打者がペドロ・セルバ。1970年代には4度の三冠王に輝いた彼は、ベーブ・ルースの愛称である「バンビーノ」と呼ばれ、親しまれていたこと。

 また、ニカラグアでは野球が国技であり、最もポピュラーなスポーツであること。ニカラグア全土で愛されている"マスコット的な存在"のお爺さん(クロドミロ・エル・ニャホ氏)がおり、親しみを込めて「クロドミロ」と呼んでいること。

 ニカラグア野球が持つ、まだ知らなかった魅力を教えてくれた兄弟との素敵な出会いだった。お礼にドラゴンズの帽子とシャツをプレゼントすると、彼らは顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。わずかなコスタリカ滞在だったが、彼らのおかげで心に残る、実りある時間となった。

【今も生きづくクレメンテイズム】

 ニカラグアの首都・マナグア。この街もカロリナに負けず劣らず、中米屈指の犯罪都市の顔を持つ町だ。マナグアに入る前に滞在したリバスやグラナダでも、現地の人たちから「ひとり歩きには気をつけろよ」と、繰り返し忠告を受けていた。

 なによりも頭から離れなかったのは、ドラゴンズの元監督・森繁和氏(以下、元上司として親しみを込めて「森さん」と呼ぶ)から「おっかねえぞ」と脅されたことだった。

 森さんは1977年のインターコンチネンタル大会に参加し、マナグアに滞在している。ほぼ半世紀も前の出来事とはいえ、あの強面で肝の据わった森さんが言う「おっかねえ」とは、一体どれほどのものなのか。背筋に冷たいものを感じながら、私はおそるおそる街へと繰り出した。

 結論から言うと、気をつけてさえいれば、問題なく過ごすことができた。市バスの路線は網の目のように張り巡らされていて、「名古屋よりも便利かも」と思ったほどだ。

 この街で訪れた場所は3カ所。まずは、ニカラグア地震の遺構である旧マナグア大聖堂。次に、アマチュア時代の森さんが足を踏み入れたスタンリー・カジャッソ球場の跡地。そして、ニカラグア野球連盟会長のネメシオ・ポラス氏の事務所だ。

 これら3カ所へは、市バスを乗り継いで向かったが、どうやら治安面の心配は杞憂だったようだ。

 球場跡地の写真を森さんにLINEで送ると、「イイネ。ありがとー!」と、まるで女子高生が使うようなスタンプ付きで返事が届き、思わずバスの中で吹き出してしまった。そういえば以前、「若い女の子たちが喜ぶからよ」なんて言っていたっけ。なんともお茶目な森さんらしい。おかげで、ビクビクしていた気持ちもすっと和らぎ、肩の力が抜けた。

 アポイントの時間にポラス氏の事務所に到着すると、彼は何やらせわしない。携帯電話を片手に動き回っている。何事かと尋ねると、「いやね、じつはいま、そこの道路で女性が車にはねられたんだ」と返ってきた。

 前言撤回。やはり安全というわけではなさそうだ。白昼堂々、街中でひき逃げだ。

「この国では救急車はタダじゃないんだ。呼ぶだけで150ドルの支払いが必要なんだよ。今、デポジットを払ったところだ。じき救急車が来るはずだ」

 見ず知らずの赤の他人のためにそこまで尽くすとは、まさにクレメンテイズムそのものだね。そう言うと、ポラス氏は少し照れくさそうに答えた。

「いや、そんな大それたものじゃないよ。ただ、誰かが彼女を助けないと。放っておけないからね」

 救急車の手配がひと段落したころを見計らい、応接室で話を始めた。

つづく>>


ロベルト・クレメンテ/1934年8月18日生まれ、プエルトリコ出身。55年にピッツバーグ・パイレーツでメジャーデビューを果たし、以降18年間同球団一筋でプレー。抜群の打撃技術と守備力を誇り、首位打者4回、ゴールドグラブ賞12回を受賞。71年にはワールドシリーズMVPにも輝いた。また社会貢献活動にも力を注ぎ、ラテン系や貧困層の若者への支援に積極的に取り組んだ。72年12月、ニカラグア地震の被災者を支援する物資を届けるため、チャーター機に乗っていたが、同機が墜落し、命を落とした

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