岡崎雄一郎さん なにかと話題になる退職代行。現在、退職代行業者としてよく耳にするのが『モームリ』だが、その礎は『EXIT』によって作られた。同社共同創業者のひとり、岡崎雄一郎さんの経歴は異質だ。東京都私立御三家の筆頭・開成中高を卒業後、アメリカ留学。帰国後は解体工や黒服などを経て、起業家に転身した。前述の『EXIT』を立ち上げたのは28歳のとき。異様なことなら、他にもある。腕から首にかけてつたうように伸びる刺青だ。彼の礼儀正しさや聡明さとあまりに不揃いな外見に、思わず目を奪われる。
岡崎さんは何を考え、どのように人生を舵取りしたのか、半生に迫る。
◆小学校時代の教師を「賢いと思えなかった」
――中学受験を経て、超難関校の開成中学校に通われていたと伺いました。中学受験を志すまでの経緯を教えてください。
岡崎雄一郎(以下、岡崎):そうですね。今思い返せば、私は“いやな子ども”だったなと思います。地元の公立小学校に通っていたのですが、どうしても教師を賢いと思えなかったんです。どちらかといえばアホだと思っていました。自分がアホだと思っている人に教わるのは非常に苦痛じゃないですか。
記憶が曖昧ですが、母親から「まともな中学校へ進学すれば、そうは思わなくなる」というニュアンスのことを言われたと思って。それで中学受験をするために塾に入り、自由な校風に惹かれて開成を受験をしたという経緯です。
――勉強で苦労したことはありませんでしたか?。
岡崎:物わかりが悪いほうではなかったと思います。中学受験では、特に算数が好きで、解くのが楽しかった記憶があります。反面、社会や理科などの暗記系科目はあまり熱心にやらなかったため、自分のなかでは不得意な科目でした。あくまで個人的な感覚ですが、たぶん開成にも算数で合格したのではないかと思っています。
◆母からは「育てるのに苦労した」」と…
――完全に印象で申し訳ないんですが、岡崎さんは好き嫌いがはっきりしていそうですよね。
岡崎:それはあるかもしれません。会うたびに、母は私のことを「言うことを本当に聞かなくて、育てるのに苦労した」と言います。自分ではあまり自覚はないんです。でも言われてみれば思い出すのが、幼稚園のお遊戯会ですね。私はお遊戯をやらされるのが嫌いなんですよ。それで、ひとりでずっと砂場で遊んでいました。当然、保護者も見に来るので、母が私のことをぽつんと見ていたのは覚えています。
母から聞いたのは、幼稚園時代に自宅付近の公園に私を連れて行ったときの話です。制止する母の言うことも聞かずに、私がアヒルを追いかけて池に入ったらしいんです。母は当然、私を捕まえるために池に入ったんですが、そこは物凄くドブ臭くて……。池から上がると、公園に居合わせた周囲の人がザワザワして、冷ややかな視線を浴びたとか。私は覚えていないんですが、たいへんだったでしょうね。
◆学力はクラスで底辺…「本当の神童が存在した」
――それはなんていうか、お母様が可哀想ですね(笑)。翻って、開成には6年間、遠方にもかかわらず通ったとか。それだけ楽しかったのでしょうか。
岡崎:今でも定期的に会う友人たちもいますし、それなりに楽しかったんでしょうね。地元は鎌倉なので、確か通学に1時間半くらいかかっていたと思います。勉強はほとんどしなかったので、学力はクラスで底辺でしたけど、勉強以外が楽しかったですね。私はスポーツがわりと得意だったので、自然と付き合う友だちもアクティブな子たちが多くなったように思います。
――地元ではかなりの神童だったであろう岡崎さんも、開成だと底辺とは驚きました。
岡崎:開成に入って思うのは、ごく一部、本当の神童が存在するということですよね。あまり勉強に時間をかけなくても、すぐに覚えてしまう子というのはいます。それに比べると、自分は勉強が少しできただけで、勉強のセンスがあるとは言えなかったんだなと感じました。
その一部の神童を除いては、正直、あとは「誰が真面目にちゃんと勉強をしたか」という序列だったなとは思います。私みたいな不真面目な人間は、「受験勉強をしてきたんだから、もう勉強なんて本気でやるやついないでしょ」と思って本当にあまりやってなかったので、そういう子はだいたい底辺を彷徨いますよね。
◆はじめての刺青は「高校3年生のとき」
――はじめて刺青を入れたのは、まだ開成に通っていた時代だったとか。
岡崎:高校3年生のときに、腰に入れました。当然、普段は隠れている場所なので、親などにはしばらくバレませんでした。普通は未成年者に彫ることはありえないのですが、身分証の提示を求められないタトゥースタジオを見つけて、そこでやってもらいました。
――なぜ彫ろうと思ったんですか。
岡崎:なにか大きなイベントがあったとか、決意があるとか、そういうのは全然ないんです。ただ「かっこいいな」っていう感覚だけで。インタビューに際していろいろ思い返してみても、そうとしか言えないんですよね。
――超名門進学校の受験期に刺青入れるというのは、前代未聞です(笑)。その後も岡崎さんの身体には刺青が増えていくわけですが、ご両親やご友人の反応はいかがですか。
岡崎:父親からは少し怒られたような気がします。ただ、昔から自分がやりたいことを絶対に曲げないし、やりたくないことはやらない性格なのを知っているので、呆れているようにも見えました。友人は、「本当に彫ったの? ウケる」みたいなライトな反応でしたね。
◆「サラリーマンには絶対に向いていない」と自覚
――超名門校を経て、アメリカ留学へ。帰国後は解体工、水商売の黒服などを経験した岡崎さんですが、学歴不問の職業をあえて経験したのでしょうか。
岡崎:学歴不問の職業のなかから選んだわけではないのですが、たとえば当時、「毎日決まったデスクワークをやるサラリーマンには絶対に向いていない」という自覚がありました。それよりも身体を動かすことが好きだったので、解体工を選んだんです。ところが私は朝も苦手なんですね。起きられないから、仕事に支障がでます。そこで、黒服をやることに。黒服は23歳くらいから5年近くやったのではないでしょうか。
――ちょうど28歳くらいから刺青が増えていったということですが。
岡崎:そうですね。自分で起業しようと思っていましたし、普通に就職するのは性格的にも無理だと思っていたので、見えるところに彫ってもいいやと思いまして。
◆刺青を彫ることに躊躇しなかったワケ
――日本社会では、刺青に対する風あたりが非常に強いですよね。そのことについて、岡崎さんはどう考えますか。
岡崎:当然でしょうね。刺青を彫る際に、そうしたデメリットは考えるべきだと思います。私は過去を振り返っても温泉は滅多に入りませんし、先ほどお話したように就職活動とも無縁の人生を生きると決めていたので、刺青を彫ることに躊躇はありませんでした。あるいは夜の職業も性に合っていたので、見た目の関係ない仕事に就けばいいと思っていました。刺青を入れるかどうかは、そうしたデメリットを熟慮してから決めたほうがいいと個人的には思いますね。
――さすがにぬかりないですね。
岡崎:とはいえ誤算もありました。賃貸契約の際に、ことごとく審査に通らないんです。もちろん審査落ちの理由は開示されませんが、仲介業者に聞いたら「おそらく刺青……」ということでした。免許証の写真からも、私は首に刺青があることが明白ですからね。
貸す側の立場になれば、それもよくわかります。そもそもこれだけ生きていくうえでのデメリットが大きいなかで、それを知りつつ刺青を入れている人は、どこか“変なやつ”なんですよ。変なやつは悪いやつとは限りません。でも、変わっている。だから、貸す側としても、とりあえず変わっていることが確定している人間よりは、内面はともかく外見だけは普通の人間に貸したいでしょう。
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岡崎さんは自身を含めたあらゆるものを客観的に見て、淡々と話す。強い信念や情熱があるわけではないのに、どんなものにも影響を受けない意志が彼の芯にある。誰もが憧れる超名門校の経歴も、きっと彼のなかでは入学と同時に後景に退いて、また別の心惹かれるものに夢中になる。少年のような無邪気さと狂気が、岡崎さんを異端の起業家に育てた。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki