【短期集中連載】中谷潤人、フィラデルフィアへ行く 迎えた元ヘビー級王者ティム・ウィザスプーンは「チャンプ、よく来たな」

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2025年07月22日 10:10  webスポルティーバ

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短期集中連載・第1回

中谷潤人×ティム・ウィザスプーン ㏌ フィラデルフィア

【元ヘビー級王者の自宅で振り返った中谷vs西田戦】

 6月も半ばだというのに、フィラデルフィア国際空港を行き交う人々は、ダウンジャケットやコートに身を包んでいた。過去に当地を訪れた折、マイナス4度を経験したことがあるが、冬に戻ったかのような気分だ。

 午前6時を回ったところだった。飛行機に乗り込む際に預けたバッグを受け取り、レンタカー会社のシャトル発着地点に移動しようと空港の外に出た途端、生暖かい空気が全身を覆う。空港内は異様なほど冷房が効いていたのだ。安堵感を覚えながらシャトルに乗り込もうとした時、スマートフォンの着信音が鳴った。

「どうだ? 無事に着いたか。俺の愛車がちゃんと動けば、迎えに行ってやったんだが」

 声の主は、元世界ヘビー級チャンピオンのティム・ウィザスプーン。ペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれ育った彼は、現在、空港から北東に45キロの地、ベンサレムで15歳になる五女と暮らしている。

「こちらはいつでもOKだから、レンタカーを借りたら、すぐに俺の家に来いよ。ジュントが到着するまで、休んだらいい」

「お言葉に甘えます」

 そう答えると私は、ベンサレムに向かって白いSUV車を走らせた。

 現WBA/WBC/IBF/WBOスーパーバンタム級チャンピオンの井上尚弥が脚光を浴び出した頃から、私はティムにコメントをもらって記事を執筆する機会が増えた。1984年にWBC、1986年にWBAでヘビー級の世界王座に就いた彼の言葉は、いつも「なるほど」と唸らされた。昨今は、井上を追う中谷潤人に関しても論じてもらっている。いつしか、ティムの意見を聞いた中谷が、この元世界ヘビー級チャンプに興味を覚えるようになった。

 ティムは常に、ディフェンスの重要性を説いた。

「どんなに攻撃力があっても、ボクサーはできる限り防御を磨かなきゃいけない。理想は、相手のパンチを1発ももらわないこと。不可能だと思うだろうが、目指さなければディフェンス力は向上しない」

 そう繰り返した。この考えに、中谷が反応したのだ。

 ティムがベンサレムで借りている2LDKのアパートを私がノックしたのは、この日の午前7時20分。再会の挨拶を済ませると、彼はノートパソコンの画面をこちらに向けた。6月8日に中谷が6ラウンド終了TKOで西田凌佑を下した一戦が流れていた。

「あらためて見た。ジュントはファーストラウンドから出たよな。格下を攻め落とすには、初回からガンガン攻めるのもアリだ。が、この相手ならいつものジュントのスタイルでも、間違いなくノックアウトできたね。シャープな左ストレートを持っているのに打たなかったのは、痛めていたからか?」

 うなずくとティムは、画面を食い入るように見つめながら話した。

「ケガもあって、この闘い方にしたんだろうな。右アッパーの連打が光っているよ。相手は、苦し紛れのクリンチが多い。キャリアの差はいかんともし難いね。無敗の世界チャンプの統一戦と言っても、31戦目のジュントと11戦目のニシダじゃプロボクサーとしてのもまれ方が比較にならない。

 ジュントが左の拳をかばいながらファイトしていたのなら、多少、大振りになってバランスが崩れる場面があっても仕方ない」

【井上尚弥とのメガ・ファイトで勝負の明暗を分けるのは?】

 中谷は、マネージャーを務める2つ年下の弟・龍人と共に日本時間6月17日、午前10時40分発の便でアメリカに向かい、シカゴを経由して、ユナイテッド2182便で14時24分にフィラデルフィアに到着する予定だった。

「もうバンタムに敵はいない。ついに、"モンスター"ナオヤ・イノウエ戦だな。世界中が注目するメガ・ファイトだ。全勝で、複数の階級を制している名チャンピオン同士。2023年7月の4冠統一ウエルター級タイトルマッチ、テレンス・クロフォードvs.エロール・スペンス・ジュニア戦以来のビッグマッチだ。ワクワクするぜ」

 ティムは、笑みを浮かべながら「本当に、そんなトップ選手が俺を訪ねて来るんだな」と言った。そして、こう付け加えた。

「このアパートは、メキシコ、プエルトリコ、インド、ギニアの人なんかが生活している。みんな、気のいい隣人だ。でも、俺の住むH棟はゴキブリだらけ。別棟ではネズミが出るらしい。15の娘と暮らすには安全でいいが、可能なら直ぐにでも引っ越したいよ」

 家賃は1600ドル。67歳の彼が毎月受給する年金も、同じ金額だった。

「息子も、彼のワイフもここに来たことは一度もない。寄りたくないんだろう。こうやって、お前が来てくれることがうれしいぜ」

 ティムもこの日は起床が早かったので、少しソファで仮眠しようということになったが、互いに寝つけず、井上尚弥vs.ラモン・カルデナス戦の映像を見ることにした。

 元世界ヘビー級チャンプは、2ラウンド終盤にカルデナスの左フックで井上がダウンするシーンを何度か巻き戻した。

「最初に目にした時は、イノウエが倒れたことに驚いた。1年前の東京ドーム(ルイス・ネリ戦)でもダウンを喫したが、同じようなパンチだ。不用意に喰らったのか、一瞬、あの角度が視界から外れたのか、そのあたりは微妙だな。

 ただ、これだけは言える。ジュントは、ネリ、カルデナス以上に鋭いパンチを持っている。リーチも長いし、背もモンスターより高い。そのアドバンテージを、どう活かすかだ。そして、ディフェン力が明暗を分ける」

 いつも陽気な彼が、険しい表情になってもう一度告げた。

「いいか。このメガ・ファイトはディフェンスで決まる」

【中谷がフィラデルフィア到着。ティム推薦の店で名物を食す】

 その後、我々は13時15分にベンサレムを出発し、フィラデルフィア国際空港へ向かった。手荷物受取所のターンテーブルで「ここは寒いな」などと言い合いながら日本からの客人を待っていると、15時少し前に、黒いTシャツに、同色のハーフパンツという出立ちのWBC/IBFバンタム級チャンピオンが現れた。

 すかさずティムが駆け寄り、「よう、チャンプ、よく来たな」と抱擁を交わす。中谷も、はちきれんばかりの笑顔を浮かべた。

 レンタカーに荷物を詰め込むと、バンタム級王者は空腹を訴えた。そこで、当地の名物である、フィリー・チーズ・ステーキを食べることにした。元ヘビー級チャンプが「最良」と推薦する店を目指した。

 レンタカーのハンドルは私が握り、助手席にティム、その後ろに中谷、運転席の後ろには龍人が座った。ティムが好むのは、イタリアンマーケットの一角にある「パット」という店であった。

 鉄板の上で薄いビーフを焼き、細かく刻む。それにオニオン、トマトと合わせてチーズで絡め、全長20cm強のバンズに挟む。"ステーキ"と呼んでいるが、サンドウィッチだ。全米各地に見られるメニューだが、本場ならではのボリュームだ。

 10日前に試合を終えたばかりの中谷は、体重を気にせず、何でも好きな物が摂れた。ティムが、「ぜひ、味わってくれ」と語りかける。

 中谷は豪快にかぶりつき、ペロッと平らげた。

 フィラデルフィア名物であるチーズ・ステーキは、ホットドッグスタンドを経営していたパット・オリヴィエリとハリー・オリヴィエリ兄弟によって生み出された。1930年代、この兄弟は新しいサンドウィッチを生み出すことを決意し、こんがり焼き上げたロールパンに、グリルビーフと玉ねぎを挟んだ物を考案した。

 とはいえ、当初、チーズは入っていなかった。同サンドウィッチが人気メニューとなったあと、1940年代にある支店長がプロヴォローネチーズを加え、チーズ・ステーキが誕生している。時の流れと共に、消費者のニーズに応える形でチキンやピザ味、辛いソースも作られた。

 19世紀末から20世紀にかけて、フィラデルフィアへ移り住んだイタリア人の多くは、南部の農村出身で、社会的にも経済的にも恵まれない層だ。貧しきイタリアンがアメリカ合衆国に渡ってブルーカラーとなり、幾ばくかのカネを故郷に送った。移民として当地に居着いた彼らは、フィラデルフィア南部にコミュニティを築いた。

 汗まみれで過酷な労働をこなす彼らには、腹持ちの良い食べ物が必要だった。フィリー・チーズ・ステーキは、打って付けの品だったのだ。

「俺はここから車で15分ほどの土地で成長した。イタリアンマーケットってのは、すべてがイタリアンマフィアの手で作られたんだぜ」

 ティムは冗談とも思えない表情でそう口にすると、地元の名産品を食べ終えた。

(第2回につづく>>)

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