
短期集中連載・第2回
中谷潤人×ティム・ウィザスプーン ㏌ フィラデルフィア
(第1回:中谷潤人、フィラデルフィアへ行く 迎えた元ヘビー級王者ティム・ウィザスプーンは「チャンプ、よく来たな」>>)
【ティムの部屋に飾られた"軽い"チャンピオンベルト】
6月18日、午前6時半にホテルを出発し、車で2分の場所にあるティム・ウィザスプーンのアパートに移動する。中谷潤人は「ヘビー級で2度も世界チャンピオンになった彼が、僕を"チャンプ"って呼んでくれることがうれしいですね」と語り、白い歯を見せた。
ティムのアパートに寄った中谷は、部屋に飾られているWBCのベルトを手に取った。少なくとも自身が保持するものより、500グラムは軽い。粗悪なレプリカといった感じで、作りも"ちゃち"だ。1984年3月9日、グレッグ・ペイジを判定で下し、空位決定戦で同タイトルを獲得したが、ティムの元にベルトは届かなかった。
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世界タイトルマッチのリング上でベルトの移動を頻繁に目にするが、実際のところは、控え室で元の所有者に戻される。後日、団体が新チャンピオン用のベルトをあつらえ、贈るのだ。とはいえ、タダではない。WBCのベルトの値段は現在、2000ドル強とされている。
プロモーターやマネージャーの懐が暖かければ、選手の勝利を祝って進呈ということになるが、ファイトマネーから天引きされてボヤいたチャンピオンの例もある。中谷は贈呈で受け取っているが、ティムは当時のプロモーターであるドン・キングと、マネージャーであったカール・キングの2人が用意しなかった。
そればかりでなく、ティムはファイトマネーのピンハネに泣かされ続けた。真っ白な紙に「サインだけしろ」と迫られ、難色を示すと「断るのなら、お前の試合は組まない。今日のヘビー級は、チャンピオンも世界ランカーも、すべて俺の持ち駒なんだ」とドン・キングに脅された。メディアで発表された額の1割しかもらえなかったこともある。
やがてティムはキングと法廷で争うが、「自分は世界チャンピオンという名の奴隷に過ぎなかった」という言葉を残している。
当時のWBCはドン・キングと密な関係にあったが、三十数年が経過し、あまりにも失礼だと感じたらしくティムにベルトを贈った。だが、それは中谷が腰に巻く重量感のある栄誉の象徴とは似ても似つかず、壊れかけのオモチャのような一品だった。それでも、ティムは元世界ヘビー級王者の証として、リビングにグリーンの"勲章"を飾っているのだった。
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この時、中谷は両手でベルトを持ち、無言のまま十数秒間、手元を見つめていた。
【突然始まったワンポイントレッスン】
レンタカーのエンジンを入れ、ルート95を南西に向かう。この日、最初の訪問地はフィラデルフィア美術館の階段だった。観光客が世界の津々浦々から、映画の舞台として名を馳せる「ロッキー・ステップ」にやってくる。
もともとティムは誰とでも陽気にコミュニケーションを取る男だが、いつになくに高揚していた。「ロッキー・ステップス」を行き交う人に、片っ端から声をかける。
「ロッキーが好きなら、ボクシングに興味があるよね? ならば、彼、ジュントの名は絶対に覚えておいたほうがいい。すでに4本の世界タイトルを獲得しているが、モハメド・アリや、マイク・タイソンと同レベルのチャンピオンになる逸材だ。来年5月にトーキョー・ドームでメガ・ファイトを控えている。実に素晴らしい選手なんだぜ!」
といった具合だ。
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統一戦を終え、休暇としてフィラデルフィアにやって来た中谷だが、その熱量に面食らいながらも終始、微笑んでいた。元世界ヘビー級チャンピオンから説明を受けた面々は、その場で「Junto Nakatani」を検索し、YouTubeで試合の模様を目にする。多くが、記念撮影を求め、中谷のインスタグラムをフォローした。
映画『ロッキー』の代名詞ともなった階段を上る前、最重量級で2度、世界王座に就いたティムは中谷に訊ねた。
「チャンプ、キミにはきちんとしたトレーナーがいるのだから、俺がどうこう言うのは避ける。でも、ひとつかふたつ、アドバイスしたい。いいか?」
間髪を入れずに中谷がうなずく。ティムはロッキー・バルボアが拳を突き上げた階段の上で、中谷と向かい合ってファイティングポーズを取ると、言った。
「IBF王者との統一戦では、ガードが下がった局面があった。脇を絞って、もっと高くしておくべきだ。ボクシングは、絶対に打たせちゃダメなんだ。たとえ空振りしても、打った後にバランスを崩さないように」
新旧2人のチャンピオンは、午前7時を少し回った曇り空の下、3分足らず向かい合った。ティムは中谷の肩の位置、足の運びを指摘した。
それまで、笑顔を絶やさなかった両者の表情が真剣になる。特に目が、闘う男のそれになった。プロボクシングのリングで生き抜いてきた者ならでの、鋭い視線をぶつけ合う。
「That's Right! Beautiful!!」
ティムはそう告げ、ワンポイントレッスンを終えた。
【現役時代に苦しんだティムの悲哀と優しさ】
中谷と接していて、いつも驚かされるのは彼の集中力と貪欲さだ。私は、ティムの現役時代、彼の次の世代でヘビー級王座を統一したレノックス・ルイス、バルセロナ五輪のライト級金メダリストとしてプロに転向し、6階級を制したオスカー・デラホーヤ、50戦全勝27KOの戦績を誇るフロイド・メイウェザー・ジュニア、祖国フィリピンを離れて本場、アメリカで伝説のファイターとなったマニー・パッキャオらを取材してきたが、ボクシングに対する姿勢で述べるなら、中谷は他の名チャンピオンたちを凌駕している。
WBC/IBFバンタム級チャンピオンは、ティムの助言を聞き漏らすまいと耳を傾け、元ヘビー級王者の指導を体に染み込ませようとした。
「今までにない視点なので、とても新鮮です。純粋に楽しいですよ。彼のベルトを触った時、哀しい気持ちになったのは事実です。プロボクサーが商品のように見られ、かつ、扱われてしまう。そういった現実があることを感じました。
以前、ティムは『ロッキー』の銅像を見ながら『映画は気楽でいいな。本物のボクサーの苦しみなんてわかっちゃいない』って発言したんですよね。やっぱり、自分がやりたいこと、進む道を満足いくようにやっていくことが大事だと考えさせられました。彼の言葉は重いですね。苦しんだからこそというか......」
かつてドン・キングは、ティムが初防衛戦に向けて必要としたトレーニングキャンプでの費用、食事代、バンテージ代などを一切、払わなかった。「これでは調整できない!」と主張しても、のらりくらりと誤魔化した。居留守を使われたことも1度や2度ではない。何より、ティムが心から信用していたトレーナーをキャンプ地に行かせないように仕向けた。
「トレーナーの相場が、選手のファイトマネーの10パーセントというのは、わかっているよな。でも、ウィザスプーンの報酬は、この俺が決めるんだ。お前の取り分なんて、雀の涙ほどもないんだよ」
そんなドン・キングのひと言で、ティムのトレーナーはキャンプ参加を見合わせた。
ティムは自暴自棄となり、ドラッグで憂さを晴らすようになる。コンディションなど作れるはずもなく、闘うモチベーションも失った。初防衛戦では格下相手に判定負けし、呆気なく王座を明け渡してしまう。
中谷は話した。
「ボクシングに向かう環境を整えないと、結果は出せませんよね。組むべき相手とやっていかなければ、と痛切に感じます。強さを求める選手に対し、障害となる動きがあるなんて......。僕にとって、WBCのベルトは幼い頃から憧れていた物で、獲得して光栄に感じますが、ティムにとっては"奴隷生活"を物語っていたんですね。大変だっただろうなと、心から思います。チャンピオンはもっと評価されるべきですし、ティムの置かれた状況は好ましくないですよね」
中谷はひとつひとつ言葉を選びながら、絞り出すように語った。WBOフライ級、同スーパーフライ級、WBCバンタム級、そして数日前にIBFバンタム級と、世界のベルトを巻いてきた彼にとって、元世界ヘビー級チャンピオンの哀史は、受け入れるのが困難だったようだ。
中谷は、熟考しながら言った。
「でも、苦しかった過去を払拭するかのように、周囲に愛情を注ぐ人ですね。とても優しいですし、いつでも誰にでもああやって笑顔で接する。僕にもです。娘さんをしっかり守りながら生活している姿も垣間見ることができました。素敵な人ですね」
7時半を過ぎた頃から、「ロッキー・ステップス」を訪れる人の数が増した。相変わらずティムは、擦れ違う全員に、中谷を紹介する。そして4人にひとりくらいの割合で、「実は俺も、2度世界ヘビー級チャンピオンになったんだ。フィラデルフィアから誕生した"リアル"ロッキーなんだぜ」と伝え、豪快に笑った。
(第3回につづく>>)