若き天才・家長昭博が「俺って、自分が思っていた以上に、サッカー選手として成功したいと思ってたんや」と気づいた瞬間

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2025年07月24日 07:10  webスポルティーバ

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ベテランプレーヤーの矜持
〜彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第5回:家長昭博(川崎フロンターレ)/前編

"家長昭博"という名前を聞いて、何を連想するだろうか。

 他とは一線を画した圧倒的な技術か。左足から繰り出される芸術的なパスやシュートか。若い頃から「天才」と称されてきた才能か。

 ガンバ大阪時代の鮮烈なJリーグデビューを、脳裏に焼きつけている人もいるかもしれない。近年なら、2017年に始まる川崎フロンターレの"タイトル"の歴史を支えてきた姿や、2018年に初めてJリーグMVPに輝いた姿を記憶に留めている人もいることだろう。

 ともに戦ったことのあるチームメイトの多くが、リスペクトを込めて「変態」だと褒め称えるそのプレーは、いつだって奇想天外。今も唯一無二の驚きを与え続けている。

 そうして目に映る彼も"家長昭博"であることに違いはないが、いつも彼には「それだけではない何か」がつきまとう。才能だけでは生き残れないこの世界で、彼を20年以上もの間、プロサッカー選手として輝かせてきた得体の知れない何か――。

 それを知りたくて、彼のもとを訪ねた。

         ◆           ◆        ◆

 家長昭博のプレーをJ1の舞台で初めて見たのは、2004年6月。ガンバ大阪に所属していた18歳の時だった。前年度の2003年にクラブ史上最も早い、高校2年生でのトップチーム昇格を果たしていた彼は、1stステージ第15節のアルビレックス新潟戦で先発メンバーに抜擢される。

 印象に残っているのは、ふたつ。ひとつ目は、前半9分という早い時間帯にゴール正面、約20メートルの距離から、左足でいきなりのJ初ゴールを決めたこと。

「ボールをもらったらフリーだったので、思いきって打ちました」

 そしてふたつ目は、いっさいの緊張も伝わってこない堂々としたプレーぶりだ。卓越した技術をベースとした低い重心で仕掛けられるドリブルは、繰り返し相手DFをすり抜け、敵の脅威となった。

 当時、ガンバを率いていた西野朗監督は家長について「いい意味で、なめきったというか、図太さが魅力」だと評していたが、まさに新潟戦での彼は"デビュー戦"であることを忘れそうになるほど、ふてぶてしく、逞しく、眩しかった。

 以来、同年の2ndステージにも7試合に先発すると、2005年も24試合に出場。ガンバのJリーグ初制覇に貢献する。当時のガンバは、遠藤保仁を筆頭に、宮本恒靖、山口智、二川孝広、橋本英郎、大黒将志、フェルナンジーニョ、アラウージョら、錚々たる顔ぶれがレギュラーとして活躍していた時代。それもあって、同年の先発出場は14試合にとどまったが、熾烈なデッドヒートが繰り広げられたリーグ終盤戦はもとより、優勝を決めた最終節の川崎フロンターレ戦も家長は先発を任され、ピッチで歓喜を味わう。

 当時19歳。「天才」と絶賛された才能を疑う余地はなかった。

 前置きが長くなったが、そんな若かりし日の思い出話から始まったインタビューは家長の「俺、天才の部類じゃないと思うんです」という言葉から始まった。

「周りにはそんなふうに言われたこともありましたけど、自分がどういう選手かは、自分が一番よくわかっていたから。僕にしてみれば、『いやいや、天才ならもっと悩まずプレーできるでしょ』的な。プレーの波もありましたしね。

 だから......最近は、人の見方って面白いなって思っています。若い頃はそういう周りの評価とのギャップというか、そこまでの選手じゃないのに、って変にピリピリしていましたけど、最近は『俺って、オモロイな』って受け入れています。自分が思う"自分"とは違う映り方をしていることにも、何かしらの理由があるはずですしね。

 でも、間違いないのは、世の中に映る姿も、自分だけが知る姿も、僕だということ。感覚的には......おそらく世の中に見えているのは、30%くらいの自分だと思っていますけど。あれ、なんの話でした(笑)?」

 ならば、だ。当時の彼は自分をどう見ていたのか。

「いや、もう生きていくのに必死で、プロサッカー選手になるのに必死で、毎日(力を)振り絞りまくっていたので、自分がどんな選手かなんて、考えたこともなかったです。トップチームでそれなりにプレーしていたのも、周りの選手に恵まれて、なんとなくプレーが成り立っていたように見えていただけちゃうかな。実際、試合には出してもらっていたけど、自分ではほんまにそのレベルに達していたのかもわからんかった」

 そういえば、今回のインタビューには、彼がガンバに在籍していた時代に行なったインタビュー記事を読み返して臨んだが、確かに当時も家長は似たような言葉を残している。参考までに、2005年のJ1リーグ初優勝直後に聞いた言葉をそのまま記しておく。

「チームとしてはたくさん勝てたし、優勝もできましたけど、それに比例して自分のパフォーマンスがよかったのかといえば、全然そうじゃなかったです。実際、試合後に『今日はよかったな』って思えた試合は1試合もなかった。これだけレベルの高い選手が多いガンバで、先発で出るとか、途中出場するようなレベルに達しているのかも、最後までわからずじまいで......。

 だから、戸惑いながらプレーしていたし、自分に対してずっと『なんかわからんけど、めっちゃ足りてへんな』ってモヤモヤしていました。実際、ゴールを挙げることを意識していたわりに、ひとつもゴールを取れなかったですしね。試合を見返すと、そもそも点を取れるポジションにいないことも多かったというか。

 試合に出してもらったことで、プロのボディコンタクトやスピードには慣れましたけど、そこでボールを奪えても、攻撃に転じたあとにゴール前まで行くためのスタミナもなかったし、シュートとか、細かな技術もまったく足りていなかった。一気に結果に結びつけられるほどの余裕もなかったです。オグリさん(大黒)やアラウージョら、前の選手にボールを預けさえすれば、彼らが点を取ってくれたので、そこに頼りすぎていました」

 19歳でその悩みを持ちながら、コンスタントに公式戦に絡み、タイトル獲得に貢献していた時点で、彼が特別な存在であったのは言わずもがなだが、その言葉からも、彼が当時の自分に何ひとつ確信が持てていなかったのが伝わってくる。その後も毎年のように優勝争いを続けるガンバで試合に絡みながら、2007年には初めて日本代表に選出されてもなお、その感覚は拭えなかった。

 その「モヤモヤしていた」ものの正体が明らかになったのは、2008年の大分トリニータへの期限付き移籍だったという。前年の2007シーズン、J1リーグ27試合に出場しながらも先発出場は6試合にとどまったなかで、家長はこの年、出場機会を求めてガンバを離れる決断をする。大分入りは「最初にオファーをくれた」ことが決め手だった。

「正直、その頃もまだ自分を探していました。ただ、大分に行ってはっきりしたのは、自分はガンバというクラブにすごく大切に、守ってもらっていたってこと。当時は、怒られてばかりだったので、甘やかされていたという感覚とも違うんですけど、クラブや周りが僕をなんとかプロで戦える選手にしようと見守ってくれていたから、プレーできていたんやな、ってガンバを離れて気づきました」

 思えば、ガンバ時代は若さもあって、感情をコントロールできず、監督と衝突したことも。途中交代に納得がいかず、そのままベンチやロッカーを通りすぎてバスに乗り込んで試合が終わるのを待っていたというのも知られた話だ。周囲からの期待と自分へのジレンマ。その"モヤモヤ"は、いつも家長につきまとった。

「当時の性格、考え方などをトータルして考えると、いい悪いは別として、自分なりに一生懸命やった結果が、その程度だったんやと思います。試合には出ていたとはいえ、そこまでの選手ではなかった、と。

 ただ、明らかに若さゆえの態度はとっていたとはいえ、その頃から......これは今も変わってないですけど、『俺が監督やったら、もっと俺を使うのに』ってことはずっと思ってきました。その考え方が正解だと思っていたわけではなく、です。なんていうか、周りのレベルとか、自分がなぜ出られないのかとか、使われない理由も理解したうえでそう思っていました。だって、サッカーやから。この個性があってもいいでしょ、みたいな」

 そんなふうに大分への期限付き移籍によって、自身の頭のなかが整理されつつあった同年2月。彼は開幕を間近に控えた状況で、右膝前十字靭帯損傷という大ケガを負ってしまう。だが、結果的にキャリアで初めての長期離脱は、自分を知り、心の奥底に潜む"本心"に気づくきっかけにもなった。

「人間は苦しい状況に立たされた時ほど、本質が見えるじゃないですか? 事実、僕もあの時初めて『ああ、俺って、自分が思っていた以上に、サッカー選手として成功したいと思ってたんや』って気づいたんです。

 いや、それまでも僕なりに"サッカー選手としての成功"を求めていたとは思うんですよ。でも、それがどの程度のものか半信半疑だったのも事実で......。実際、ガンバ時代はさっきの話じゃないけど、今の10代(の選手)には考えられないような、ほんまにプロとしてやっていこうと思っているのかを疑われてもおかしくないような態度もとっていましたしね(苦笑)。

 そんな自分だったので、大ケガをして自暴自棄になるんかなと思っていたら、いっさいの迷いなく、めちゃめちゃ真剣にリハビリに取り組んだんです。その自分を知った時に『ああ、俺って本気でピッチに戻ってまたサッカーをしたい、成功したいと思っているんや』って気がついた」

 そんな自分を確認したうえで、プロになって初めて「サッカーって、こうよな!」という考えに行きついたのは、セレッソ大阪で過ごした2010年だ。レヴィー・クルピ監督のもと、ひたすらに武器で勝負することを求められた時間は、ガンバユース時代以来、忘れていた自分を取り戻すきっかけになる。

「正直、プロになってから、ずっと試合が面白くなかったんです。その理由は......おそらく、プロは勝敗が一番大事やから。現に、プレーの選択、戦い方を含めて、確率論的には"負けない確率をできるだけ大きくすること"を第一に考える。

 でも、クルピ監督はそうじゃなかった。いや、勝敗のこともめちゃくちゃ言うんですよ。言うんですけど、あの人は、そのプロの世界でのスタンスと、自身のマインドがおそらく全然違うところにあったんやと思います。実際、求められる役割もあったとはいえ、それ以上にいつも『自分のポテンシャルを出してどんどん攻めろ』と強調されていました。

 そのサッカーに触れた時に、『ああ、俺ってこうやってプレーしてたな』って、サッカーのやり方を思い出したんです。プレーしながら、これをしなきゃ、あれをしなきゃに囚われるのではなく、これをしよう、あれをやってみたいって考えがどんどん湧いてくる、みたいな。その自分を体感して久しぶりに"サッカー"をしている気になれた」

 当時のセレッソは、乾貴士や清武弘嗣、香川真司、アドリアーノらが前線を彩っていた時代。そうした個性豊かなタレントと攻撃を作り上げる楽しさも相まって、家長は水を得た魚のように躍動を見せた。

「紆余曲折はありながらもキャリアを積んできて、単純にピッチでできることが増えていたのもあったと思います。それが、クルピ監督の"サッカー観"みたいなものとフィットしたってことじゃないかな。もちろん、サッカーなので正解はないけど、少なからず僕自身は、それまでで一番『しっくりきた』という感覚でサッカーをしていました」

 それは結果にも表われ、この年の家長は第7節の湘南ベルマーレ戦で初先発を飾ったのを機に、以降はほとんどの試合に先発出場。4得点10アシストと数字を残し、チームとしてもクラブ史上最高順位の3位に上り詰める。そのシーズン終了後には、彼にとって初めてとなる、海外からのオファーが届いた。

(つづく)◆家長昭博「変な個性がある選手が好き。最近なら、鹿島の鈴木優磨くん」>>

家長昭博(いえなが・あきひろ)
1986年6月13日生まれ。京都府出身。ガンバ大阪のアカデミーで育ち、高校2年生の時にトップチームへ昇格。翌2004年、J1デビュー。以降、若き天才プレーヤーとして脚光を浴びるが、レギュラーに定着するまでには至らず、2008年から大分トリニータ、2010年からはセレッソ大阪へ期限付き移籍。そして2011年、マジョルカ(スペイン)へ完全移籍。その後、2012年に蔚山現代(韓国)、古巣のガンバに期限付き移籍。2013年夏にマジョルカに復帰したあと、2014年に大宮アルディージャに完全移籍。2017年には川崎フロンターレへ完全移籍し、以降チームの主力として数々のタイトル奪取に貢献する。2018年にはJリーグのMVPを受賞。

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