Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第3回】イワン・ハシェック
(サンフレッチェ広島、ジェフユナイテッド市原)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。
第3回は1994年から1995年までサンフレッチェ広島で、1996年はジェフユナイテッド市原でプレーしたイワン・ハシェックを紹介する。1994年のサントリーシリーズ優勝に貢献した「チェコの英雄」は、黎明期のJリーグを代表する外国人だ。
※ ※ ※ ※ ※
イワン・ハシェックを初めて見たのは、1990年のイタリアワールドカップだった。旧チェコスロバキア代表の攻撃的な右サイドバックで、26歳にしてキャプテンを任されていた。
|
|
その彼がJリーグ発足2年目の1994年に来日し、サンフレッチェ広島の一員となる。広島は前身のマツダからヨーロッパとつながりが深く、スチュアート・バクスター監督はイングランド出身だ。広島らしい人選、と言うことができた。
当時のJリーグは、スタメンの11人が1番から11番を、5人の控え選手が12番から16番を着ける「変動背番号制」だった。ハシェックは「6」を好んで着けたが、ポジションは右サイドバックではない。中盤の攻撃的なポジションやストライカーを担った。
イタリアワールドカップのイメージを引きずっていただけに、個人的にはちょっぴり驚かされた。だが、広島加入前に在籍したストラスブール(フランス)では、97試合に出場して31ゴールを記録していた。クラブレベルでは、セントラルMFが主戦場だったのである。
当時の僕はサッカー専門誌に勤めており、フランス「リーグ・アン」の情報を提供している通信員に聞くと、「ストラスブールはイワンのチームですよ」と教えてくれた。2部から1部へ昇格させた彼は、地元で英雄視されているとのことだった。
広島でも、すぐに結果を残す。
|
|
デビュー2試合目のガンバ大阪戦で、118分に延長Vゴールを決めた。圧巻だったのは、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)とのアウェーゲームだ。
広島は前身のマツダから、読売クラブにルーツを持つヴェルディを苦手としていた。Jリーグのプレ大会の位置づけだった1992年のナビスコカップ以降、リーグ戦でもカップ戦でも一度も勝てていなかった。1994年の最初の対戦(サントリーシリーズ第5節)でも、ホームで0-5の大敗を喫している。
しかし、敵地・等々力での一戦(サントリーシリーズ第17節)で、広島は4-1で快勝する。ハシェックがハットトリックを成し遂げたのだ。ヘディングシュートを2本決め、右足のボレーでネットを揺らした。ちなみに0-5で敗れたV川崎戦に、ハシェックは出場していない。
【Jリーグ3年間で42ゴールを記録】
身長は171cmだが、空中戦に強かった。ボレーシュートがうまくて、アーティスティックなトラップから技巧的なシュートを決めることもあった。ドリブル、パス、シュートのすべてがインターナショナルのクオリティだったのである。
1994年はリーグ戦32試合に出場し、チームトップにして得点ランキング8位タイの19ゴールを叩き出した。パベル・チェルニーが15ゴール、高木琢也が14ゴール、盧延潤(ノ・ジュンユン)が10ゴールと、このシーズンの広島は攻撃力を爆発させた。
|
|
加入2年目の1995年には、ゲームメイクのセンスも感じさせた。オランダ人のビム・ヤンセン監督のもとでトップ下を主戦場とし、ファンルーンや盧延潤の2トップを操りながら、自らも11ゴールを記録した。
チェコ代表では、フィールドのほとんどのポジションを担ったオールラウンダーである。この男のキャパシティの広さには驚かされるばかりだった。
1995年を最後に広島から離れると、1996年はジェフの一員として戦った。ここでは「6」ではなく「8」を着け、リーグ戦30試合のうち28試合にスタメン出場した。ストライカーの城彰二、技巧派MFマスロバル、右サイドアタッカー廣山望らとコンビネーションを構築し、シーズン途中までの在籍ながらチームトップの12ゴールを記録している。
その後、ヨーロッパの1996-97シーズン開幕に合わせて母国のスパルタ・プラハへ移籍。数多くのタイトルをもたらした古巣でのプレーを選び、1997-98シーズンを最後にスパイクを脱いだ。35歳の誕生日を数カ月後に控えたタイミングでの引退は、キャリアに影を落とす大きなケガもなく、複数のポジションでチームの助けになれる彼からすると、少しばかり早い気もする。
引退から1年半ほどが経った1999年春、ハシェックを訪ねてプラハを訪れた。ビールの名産地として知られる古都で一緒にパブへ行き、週末の楽しみだというアイスホッケーの試合を観戦した。彼はスタンドで一緒に試合を見るのでなく、プレーヤーとしてリンクに立った。
【ハシェック夫人は日本料理に魅せられた】
ハシェックは可能なかぎり一緒にいてくれたのだが、当時の彼はチェコサッカー協会のゼネラルセクレタリー兼代表チームアシスタントコーチの要職に就いていた。携帯電話は昼間なら数分に一回、夜でも数十分に一度は振動した。スケジュールに追われる日常の癒しは、プラハ市郊外の豪邸に取り込まれた日本の文化だった。
「奥さんが日本を大好きになって、掘りごたつのある日本間と庭園を造りました。置物もずいぶん持って来ましたよ。日本酒と焼酎もあるし、日本茶も好きです」
ビールの『バドワイザー』はチェコの都市ブドヴァイスにちなんだものだが、ハシェックは「ビールはキリンが美味しいね」と笑った。
「プラハでは美味しい寿司とお刺し身が食べられないから、それがホントに寂しくて。練習のあとにチームメイトと一緒に行く食事は、いつも美味しかったなあ。たまに行くカラオケも楽しかったよ」
そう話すハシェックは、浴衣を着ている。「写真を撮るならなら、これがいいんじゃない?」と、彼が自ら用意してくれたのだった。
「日本はホントにいいところだった。友だちもたくさんいる。誰もがいい人ばかり。だから、ここ(プラハ)で過ごしていても、いつも頭にありますね」
日本料理に魅せられたカタリーナ夫人は、焼肉、焼きそば、しゃぶしゃぶなどを食卓に並べると教えてくれた。長男パベルの部屋には書き初めが飾ってあり、次男イワンの部屋のドアには「いわん」の名札がかけられていた。ハシェックだけでなく家族全員が、日本に滞在した3年間をかけがえのないものとして過ごしていた。
ハシェックは2004年に日本へ戻ってきた。ヴィッセル神戸の監督に就任したが、シーズン途中で解任された。
その後は日本との接点を持つことなく、現在はチェコ代表監督を務めている。直近のターゲットは2026年北中米ワールドカップの出場権獲得で、クロアチア、モンテネグロとのグループで首位通過を目指している。
「人生にはあらゆる可能性があります。今日チェコにいても、明日はイタリアとかアメリカ、それともフランスにいてもおかしくない。もちろん、日本にいてもね」
果たして、彼の人生と日本サッカーがもう一度、交わる日は訪れるのか──。