イチローの圧倒的才能を間近で見た田口壮は「自分が首位打者を目指す意味はあるのか」とプレースタイルを変えた

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2025年07月27日 18:20  webスポルティーバ

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田口壮が語るイチロー(前編)

 日本人選手として、初めてアメリカ野球殿堂入りを果たしたイチロー氏の表彰式典が、現地7月27日に野球発祥の地とされるニューヨーク州クーパーズタウンで行なわれる。そのイチロー氏とオリックスの同期入団である田口壮氏に、オリックス時代の思い出を語ってもらった。

【走る姿はまるでカモシカ】

── 田口さんとイチローさんはオリックスの同期入団です。最初に会ったのは、入団会見の時ですか?

田口 そうだったと思います。たしか、(ユニフォームの)採寸の時にちょっと話をした記憶がありますね。

── その時の印象は?

田口 その時は特に強い印象はなかったんですが、年が明けて、1月の自主トレが始まった時に、「バネがすごいな」と。まだ高校を卒業したばかりなのに、走っている姿を見て、軽いし、跳ねるように動く。まるでカモシカのようでした。ジャージ姿でピョンピョンと軽やかに跳ねながら走っている姿は、今でもはっきり覚えています。

── その年はイチローさんを含め高校生が4人指名されていましたが、そのなかでも?

田口 群を抜いていましたね。明らかに違いました。肩の強さも抜けていましたし、しっかりしたフォームで投げていました。一つひとつの動きがきれいで、躍動感がありました。

── 田口さんは1年目に開幕スタメン、イチローさんはファームでのスタートでしたが、二軍で首位打者を獲りました。バッティングを見て感じたことは?

田口 キャンプ中も一緒になることはあまりなかったので、じっくり見る機会は少なかったんですが、たまに一軍に上がってきた時、「バッティングが柔らかいな」という印象は持っていました。

── イチローさんはプロ3年目の94年に210安打を放ち、大ブレイク。

田口 最初は振り子打法だったと思いますけど、とにかくバットに当てていました。ワンバウンドの球でも打っていましたからね。コンタクト能力がすごかった。

── ボール球でもヒットにしていた印象がありました。

田口 そうですね。とにかくミート力がずば抜けていました。それに足も速かったですし、それを生かすバッティングもできた。ヒットゾーンが広く、「そのボールも届くの?」という感じでしたね。

── 同期入団ということで、比較されたりすることはありましたか。

田口 比較されることはなかったですが、彼のことを聞かれる機会はどんどん増えましたね。僕自身のことよりも、彼のことを聞かれるという(笑)。

【自分は違う道で生きていかないと】

── 田口さんご自身、子どものころからずっと野球をやってこられて、すごい選手をたくさん見てきたと思います。

田口 正直、「この人には勝てないな」と思う選手はたくさんいましたが、なかでもイチローは圧倒的でしたね。こっちは3割を目指すのが精一杯なのに、毎年のように3割7分、3割8分を打つ。「こんな選手がいるなかで首位打者を目指す意味があるのか」と、打率という目標そのものが意味を持たなくなるくらいでした。それよりも出塁するとか、ランナーを還すとか、別の価値を見いだしていかないと、このチームで生きていけないなと思いました。

── 仮にイチローさんが違うチームにいたら?

田口 おそらく、引退するまで3割を目指していたと思います。だけど、彼が同じチームにいたことで、「自分は違う道で生きていかないと」と考えるようになりました。

── 守備でも、田口さん、イチローさん、本西厚博さんの外野陣は鉄壁でした。

田口 自分で言うのもなんですけど、あの外野陣はすごかったと思います。守備の連携も、質も高かったです。本西さんがうまくバランスを取ってくれて、僕たちをフォローしてくれました。

── 当時、イチローさんは「(ランナーを)回らせて刺殺する」スタイルだったと聞きました。

田口 そうですね。彼はそういうプレーができる選手でした。僕はどちらかというとチャージして、ランナーを止めるほう。というのも、僕はもともとイップスがあったので、投げるよりも"ランナーを止める"ことに意識を置いていました。

── 95年にリーグ優勝、96年に日本一。当時のオリックスは黄金期とも言える強さでした。

田口 とくに96年は、チームとして本当に充実していました。イチローはすでにスーパースターでしたが、まだまだ伸びていく段階。僕も95年にレギュラーを獲ったばかりで、まだふらふらしていたころでしたけど(笑)、先輩たちがしっかり支えてくれました。現オリックスGMの福良(淳一)さん、馬場(敏史)さん、勝呂(壽統)さん、本西さん......プレーだけじゃなく、野球の考え方も教えてもらいましたし、精神的にも支えていただきました。

── イチロー選手の存在感もあったと思いますが、ベテランの力がチームをまとめていたんですね。

田口 そうですね。イチローはもちろん中心でしたが、精神的にはベテランの先輩たちがグッと引っ張ってくれていた。ニールとイチローのふたりで打線を回せば何とかなる、という状況を先輩たちがつくってくれていた。そのおかげで僕たち若手も安心して戦えたんです。

── オリックス時代のイチローさんとの思い出で、一番印象に残っているのは何ですか。

田口 西武球場の試合で福良さんがフライをエラーして、連続無失策記録が途切れたんです。その試合、イチローも外野でエラーをして......ただそのあと、ふたりとも打ちまくって逆転したんです。勝負強いなと。野球をやっていたらミスは必ず起こります。それを目の色を変えて取り返す力。これはすごく大事なことです。

つづく>>


田口壮(たぐち・そう)/1969年7月2日生まれ、兵庫県出身。西宮北高から関西学院大に進み、91年のドラフトでオリックスから1位指名され入団。3年目の外野手転向を契機に、レギュラーに定着し95、96年のリーグ連覇(96年は日本一)に貢献した。ゴールデングラブ賞を5度獲得した名手。2002年FA宣言し、メジャーのセントルイス・カージナルスに入団。フィラデルフィア・フィリーズ、シカゴ・カブスと渡り歩き、06年(セントルイス)、08年(フィラデルフィア)と2度のワールドチャンピオンに輝いた。10年にオリックスに復帰し、11年に退団。12年も現役続行を希望し、リハビリを続けていたが、獲得する球団はなく7月31日に引退を発表。引退後は解説者、オリックスのコーチ、二軍監督などを歴任した。

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