
連載第60回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回はE-1サッカー選手権以降韓国での取材を続けた後藤氏が、現在はソウルの繁華街となっている場所にあった「東大門運動場」での戦いの歴史を紹介します。日本は11戦して韓国に一度も勝てなかった、苦い思い出の場所です。
【完全アウェー状態】
E-1サッカー選手権のあと、僕は約1週間韓国に滞在してKリーグの試合を観戦してから帰国したのだが、まだ頭の中にはハングルが渦巻いている。そんなわけで、もう1回だけ韓国の話にお付き合い願いたい。
前々回、1996年のアジアユース選手権について書いたコラムにも登場した、首都ソウルの東大門(トンデムン)運動場の物語である。
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1968年のメキシコ五輪で3位に入った日本代表の長沼健監督(のちに日本サッカー協会会長)は「次はW杯だ」と語った。当時はアマチュアだけしか出場できなかった五輪に比べて、欧州・南米のトッププロが参加するW杯のレベルは数段上。それでも、日本はW杯に挑もうとしていた。
1970年メキシコW杯のアジア・オセアニア1次予選は日本、韓国、オーストラリアの3カ国が参加して、五輪銅メダル獲得からちょうど1年となる1969年10月に開催された。日本はメキシコ五輪予選に続いて東京での開催を目指したものの、会場は当時「ソウル運動場」と呼ばれていた東大門運動場に決まった。
2回戦総当たりのリーグ戦の結果、オーストラリアが2次予選に進出。日本は2分2敗の最下位で敗退。大会を前に絶対的エースだった釜本邦茂がウイルス性肝炎で離脱した影響が大きく、国家的支援を受ける韓国やセミプロ選手のオーストラリアに遠く及ばなかった。
ちなみに、メキシコW杯には当時はアジア連盟に所属していたイスラエル(現在はUEFAに所属)が出場した。
さらに、1972年のミュンヘン五輪予選もソウル運動場で開催された。「日韓両国の一騎打ち」と誰もが予想していた。
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ところが、雨中でのマレーシアとの開幕戦。後半開始直後にGKからのロングキックのバウンドが変わり、日本のGK横山謙三が処理できずに失点。その後も2点を追加されて日本は完敗を喫してしまう。
この大会、テレビ中継は衛星中継ではなくビデオテープを空輸する方式だったので、放映は試合翌日。当日の実況はラジオだけだったのだが、聞いていて耳を疑うような結果だった。
マレーシアは2戦目でも韓国を破ってそのまま4戦全勝で五輪出場を決め、日韓戦は"消化試合"となってしまった。
しかし、消化試合といえどもソウル運動場は超満員となった。
当時、ソウル運動場での「韓日戦」ではいつもスタンドは立錐の余地もない満員となり、陸上競技のトラック部分にまで観衆を入れることも珍しくなかった。日本人サポーターが韓国を訪れることもほとんどなく、試合は完全アウェー状態。日本は若手のホープ永井良和が1点を返して同点としたが、スタジアム全体がシーンと静まり返るという異様な光景が印象的だった。
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日本の植民地支配が終わってまだ25年ほどしか経っておらず、まだ経済的に貧しかった韓国では日本に対する対抗意識が非常に強かった。最近は韓日戦といっても普通の国際試合と変わらない雰囲気だが、当時、韓日戦というのは特別なゲームだった。
【韓国と11戦して2分9敗】
1972年に始まった日韓定期戦でも、戦いの舞台は東京の国立競技場とソウル運動場だった。そして、1970年代を通じて日本は韓国に対して劣勢が続いていた。
日本が初めてアウェーで韓国に勝ったのは1984年の定期戦、新設された蚕室(チャムシル)五輪主競技場のこけら落としとして行なわれた試合だった(ただし、韓国は若手主体)。
つまり、日本はソウル運動場で韓国と11試合戦って1勝もできなかったのだ(2分9敗)。ソウル運動場は日本にとって「韓国に勝てない時代」を象徴する屈辱のスタジアムだったということになる。
僕が初めて韓日戦を観戦に行った1982年の定期戦もやはりソウル運動場で行なわれ、0対3の完敗に終わっている。
ソウル運動場は1986年のアジア大会や1988年のソウル五輪を前に大規模改修され、名称も東大門運動場に変更された。
東大門運動場は韓国スポーツ界の「聖地」的存在であり、1982年3月には新しくスタートした韓国プロ野球の開幕戦がソウル運動場野球場で行なわれ、翌1983年5月にはプロサッカーリーグ(現在のKリーグ)の開幕戦、ハレルヤ対油公(ユゴン)の試合がソウル運動場で行なわれた。
しかし、ソウル五輪開催のためにソウル市内を流れる漢江(ハンガン)の南の蚕室に五輪主競技場が完成し、さらに2002年W杯を前にソウル西部にW杯競技場が建設されると、東大門運動場でサッカーの代表戦は行なわれなくなり、東大門運動場は2008年に取り壊された。
【100年前に完成】
日本のサッカーにとっては屈辱のスタジアムだった東大門運動場だが、実はこのスタジアムは日本統治時代の1925年に、皇太子(のちの昭和天皇)の結婚を記念して日本(朝鮮総督府)が建設したもので、完成当時は「京城(けいじょう、キョンソン)運動場」と呼ばれていた(京城は当時のソウルの名称)。
1910年に朝鮮(大韓帝国)を併合した日本は、当初は「民族意識を高揚させる」として朝鮮人によるスポーツ大会を禁止した。だが、1920年代に入ると朝鮮総督府は朝鮮人との融和のためにスポーツを利用しようとする。
朝鮮の野球やサッカーのチームは日本国内のさまざまな大会に参加したし、1936年のベルリン五輪では朝鮮出身の孫基禎(ソン・ギジョン)と南昇龍(ナム・スンニョン)がマラソンで金メダルと銅メダルを獲得。サッカーの日本代表にも朝鮮出身のMF金容植(キム・ヨンシク)が入ってスウェーデン戦勝利に貢献した。
そんな時代に、スポーツの中心となったのが東大門運動場だった。東大門運動場には陸上競技場(兼サッカー場)だけでなく、野球場や水泳プール、テニスコート、シルム(韓国式相撲)場も建設され、手狭な敷地内にスポーツ用品店や食堂なども軒を並べることになる。
東京の明治神宮外苑競技場(国立競技場の前身)や兵庫県の甲子園野球場が完成したのが1924年だから、その翌年にほぼ同規模のスタジアムが京城にも造られたということになる。ちなみに、1926年には朝鮮北部の中心都市、平壌(ピョンヤン)にも牡丹峰(モランボン)運動場が完成している。同運動場のあった場所には、現在、金日成(キム・イルソン)競技場が建設されている。
【現在は韓国スポーツの歴史を展示】
朝鮮王朝時代の首都、漢城(ハンソン=現在のソウル)は城壁に囲まれた城郭都市だった。城壁には四つの大門があり、東の大門が「興仁之門(フンインジムン)」で一般に「東大門」と呼ばれていた。
東大門は現在、国の指定宝物となっているが、周囲はファッション関係の商店や飲食店がびっしり建ち並び、ソウルを代表する繁華街のひとつとなり、地下鉄3路線が乗り入れる交通至便の場所でもある。
運動場が建設された場所は朝鮮王朝時代には訓練院つまり首都防衛軍「下都監(ハドガム)」の練兵場が置かれていた。
朝鮮で初めてフットボールが行なわれたのは1882年6月に仁川(インチョン)に無許可で上陸した英国の測量船「フライングフィッシュ」の乗組員がフットボールに興じた時と言われているが、英朝修好条約締結後の同年7月に仁川を訪れた「フライングフィッシュ」やコルベット艦「エンカウンター」の乗組員は、今度は漢城の東大門外にあった訓練院でフットボールの模範試合を披露している。
さて、運動場が取り壊された後、東大門周辺では発掘調査が行なわれ、水門など歴史的建造物が復元され、2009年には運動場跡地に東大門歴史文化公園が完成した。その一角には2基の照明塔が立っている。スタジアムの記憶を大切にするためにかつての運動場の照明塔が残されたのだ。そして、東大門運動場記念館も建設され、韓国スポーツに関する歴史資料などが展示されている。
旧総督府など植民地時代に日本人が建設した施設の多くは取り壊された。だが、東大門運動場は、現在もスポーツの「聖地」として親しまれ、取り壊されたあともその記憶が大切にされているのである。
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