
乱用に使用される薬物は多種多様ですが、そのうち「フェンタニル」という薬物を中心とした合成麻薬性鎮痛薬の不正使用が2014年ごろから急増し、2022〜2023年には年間の死者数が7万人を超えるという悲惨な状況になっています。
政府がいくら解決を図ろうとして対策をとっても、事態は悪化の一途をたどっています。
日本でも注目され始めた「フェンタニル問題」
こうしたアメリカの状況は、日本でも一部で報道されてきたものの、ほとんど話題になっていませんでした。ところが、2024年6月26日の日本経済新聞にて、フェンタニルをアメリカに不正輸出する中国組織が日本に拠点を作っていた疑いがあると報じられると、「もはや対岸の火事ではない」と感じたのか、多くのメディアが急にこの問題を取り上げるようになりました。
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拡散される「2mgで致死量」という情報の違和感
ただ、にわかに「フェンタニル問題」が取り沙汰されるようになった中で、「2mgで致死量」という情報が拡散しています。私は薬物の専門家として、この情報に違和感を覚えます。フェンタニルは、世界中の医療機関で使用されているスタンダードな鎮痛薬です。特に他の薬が効かないような末期がんの激しい痛みを和らげるのに有効な薬であり、現在も多くの患者さんを救っています。
日本で現在販売・使用されているフェンタニル製剤には、最高で1つに16.8mgのフェンタニルを含有したテープ剤(3日用)もあります。
もし2mgがフェンタニルの致死量だとしたら、16.8mgものフェンタニルを与えられた患者さんは、なぜ命を落とすことなく治療が可能なのでしょうか?
「2mgで致死量」という報道が、実にいい加減に行われており、その意味も理解されないまま数字だけが独り歩きしているのは、非常に危険なことです。その真意を、専門家として正しく解説したいと思います。
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薬の効果は「量」ではなく「体内濃度」で決まる
まず、知っておいていただきたいのは、薬の効果は使った「量」で決まるのではなく、「体内の濃度」で決まるということです。分かりやすい例として、お酒を挙げましょう。例えば、500mLのお酒を飲んだとき、その量だけで酔い方が決まるでしょうか? 違いますね。アルコール摂取時の酔い方は、「飲んだ量」ではなく「体内のアルコール濃度がどれくらいに達するか」によって変わります。
もちろん個人の体質によりますが、500mLより少ない量でも一気飲みすればひどく酔いますし、500mLを超える量でも時間をかけて飲めば、あまり酔いません。薬もこれと同様で、使い方によって作用は大きく変わるのです。
「2mgで致死」はどういう状況の話なのか
では、「致死量が2mg」というのは、どういう使い方をした場合の話なのでしょうか? そこが明確でないまま、数字だけを取り上げても意味がありません。日本の各種メディアが「フェンタニルの致死量が2mg」という情報をどこから入手したかは定かではありませんが、そのソースは、アメリカの麻薬取締局(United States Drug Enforcement Administration: DEA)がネット上に公開している ”Facts About Fentanyl”という記事と思われます。
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『Two milligrams of fentanyl can be lethal depending on a person’s body size, tolerance and past usage. DEA analysis has found counterfeit pills ranging from .02 to 5.1 milligrams (more than twice the lethal dose) of fentanyl per tablet. 42% of pills tested for fentanyl contained at least 2 mg of fentanyl, considered a potentially lethal dose.』
訳:2mgのフェンタニルは、体格、耐性、過去の使用歴などに応じて致死量となる可能性があります。DEAの分析では、偽造錠剤には1錠あたり0.02〜5.1mg(致死量の2倍以上)のフェンタニルが含まれていたとのことです。
フェンタニル検査を受けた錠剤の42%に、潜在的に致死量と考えられる2mg以上のフェンタニルが含まれていました。
つまり、ここで想定されている「致死量」は、錠剤を経口摂取した場合の話です。
日本の医療現場で使われるフェンタニルと、その安全性
なお、現在の日本では、フェンタニルの錠剤は使用されていません。主に使われているのは「貼付剤」とも呼ばれる「テープ剤」です。テープ剤は薬物を含んだ基剤を皮膚に貼ることで、徐々に薬が体内へ移行するよう設計されています。10mgを超えて使用しても、致死的にはなりません。要するに、致死量とは使い方や個人差によって変わるものであり、「2mg」という数字に絶対的な意味はないのです。不正な薬物乱用は言うまでもなく是正されるべき問題ですが、その危険性を伝えるために、薬そのものが危険であるかのような誤情報は拡散されるべきではありません。
問題の真意を理解せずに、「致死量は2mg」という情報をセンセーショナルに伝えるような報道・拡散は控えていただきたいと、薬物を扱う専門家の1人として、切に願います。
「フェンタニル」自体を恐れるのではなく、問題点の正しい理解を
いずれにしても、フェンタニルは正しく医療機関で使用される上では、非常に優れた薬です。優れた効果があるゆえに、ごく微量でも使い方を誤れば、取り返しのつかないことになりうるという認識を持つことは大切です。決められた用法を正しく守ることで、薬のメリットを最大限に活かすことができます。
改めて、多くの方にフェンタニルの正しい知識とリスクへの適切な向き合い方を理解していただきたいと思います。
阿部 和穂プロフィール
薬学博士・大学薬学部教授。東京大学薬学部卒業後、同大学院薬学系研究科修士課程修了。東京大学薬学部助手、米国ソーク研究所博士研究員等を経て、現在は武蔵野大学薬学部教授として教鞭をとる。専門である脳科学・医薬分野に関し、新聞・雑誌への寄稿、生涯学習講座や市民大学での講演などを通じ、幅広く情報発信を行っている。(文:阿部 和穂(脳科学者・医薬研究者))