ダイエー初優勝の直前、城島健司は仏のように笑う王貞治を見て涙が溢れた 「ギリギリになってしまったけど間に合ったんだ」

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2025年07月30日 10:10  webスポルティーバ

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福岡ソフトバンクホークスCBO 城島健司インタビュー(中編)

前編:世界の王貞治と20歳の城島健司が築いたホークス黄金時代の礎>>

 1999年、ダイエーホークスは悲願の初優勝を果たした。その舞台裏には、5年目を迎えていた王貞治監督と正捕手・城島健司の強い覚悟があった。当時のチームの空気、福岡の街の高揚、そして胴上げの瞬間にあふれ出た涙──。指導者・王貞治から受け取った数々の金言とともに、あの優勝が自らの野球人生をどう変えたのか。城島氏が振り返る。

【入団5年目に念願の初優勝】

── 1999年、ついにダイエーホークスが初優勝を果たします。王監督と城島さんの5年目のシーズンでした。

城島 僕のなかでは「時間がない」という思いで臨んだシーズンでした。王監督は契約最終年でしたから。

── このシーズンは開幕から快調に走り、例年と比べてチームの雰囲気も違ったのでは?

城島 いやぁ、どうですかね。メンバーのほとんどは優勝経験がなかったので、西武の黄金期を知っている秋山(幸二)さんと工藤(公康)さんが引っ張ってくれるところを、僕らはこれで合ってますか?」みたいな感じで後ろをついていくだけでした。何かフワフワしていたと思います。

── 西武とデッドヒートを繰り広げながらも、8月末についにマジック点灯。優勝に少しずつ前進していった時期の思い出などは?

城島 細かいことはあまり覚えていませんが、福岡の街が何か変というか、感じたことのない雰囲気になっていました。僕らがそうだったように、福岡のホークスファンの人たちも優勝と言われてもピンとこない感じだったのでしょうね。

── 福岡を本拠地にしていた球団としても、西鉄ライオンズ以来36年ぶりの優勝でしたからね。

城島 最初の頃は「本当に優勝するの?」みたいな感じだったのが、シーズンが進むにつれて福岡の街全体がフワフワしだして。地元メディアのみなさんもどんどん煽ってくるし(笑)。でも、応援する気持ちで取材してくれているのは伝わっていました。僕らも「なんだ、この雰囲気は?」となっていましたけど、ホークスが大阪から福岡に移転して11年目で、やっと福岡の街、福岡のファンの皆さんに認めてもらえたんだというのを肌で感じていました。

【優勝の瞬間、涙が溢れた理由】

── 初優勝の日。王監督の美しい胴上げの隣で、城島さんが涙していたのは印象的でした。

城島 あの時の映像は今でもテレビなどで使われることがありますが、最後の1球の前に、僕はもう泣いているんですよね。じつは2ストライクまで追い込んだ時、僕はパッとベンチの方に目をやったんです。そうしたら王監督が笑っていたんですよ。スコアは5対4。ピッチャーは守護神の(ロドニー・)ペドラザでしたけど、まだ1点差じゃないですか。

 あの頃の王監督は本当に厳しくて、眉間に常にしわを寄せて、グラウンドをものすごい目力でじっと睨むのが常でした。1点リードで笑顔なんて見たことがなかった。そんな王監督が仏様のように笑っていたんですよ。僕、それを見た瞬間に涙がポロポロ溢れてきて。これで優勝する、5年目でギリギリになってしまったけど間に合ったんだ、と。あの一瞬だけは忘れられないです。

── そして最後のバッターは空振り三振。

城島 いま思えば、僕よく捕りましたよ(笑)。でも、なんというか、あの笑顔にすべてが集約されていた。あの笑顔を見ることができてよかったと、心から思いました。ホークスは翌年もリーグ連覇を果たして、2003年にも優勝と日本一になって常勝軍団になっていきましたが、涙を流したのは1999年の優勝の時だけでしたね。

── もし1999年にホークスが優勝していなければ、その後のプロ野球は現在とはまるで違う世界だったかもしれませんね。

城島 そうかもしれません。すべて仮定の話ですけど、王監督は当初の5年契約をもって1999年限りでホークスを離れていたかもしれない。王監督がいなければ僕自身も指導者によっては「他のポジションをやれ」と言われて、キャッチャーを続けられることはなかったかも。そうなればメジャーリーグでプレーすることもなかったかもしれません。すべて"たら、れば"の想像ですけどね。

 ただ、とにかくホークスが最初に優勝するまでの5年間、僕自身もそうだし、今のホークスを率いる小久保(裕紀)監督もそう。その当時を知る僕らは、王監督から「野球選手とは何か」「プロとは何か」というものをイロハのイから教わりました。僕なんて18歳でプロに入って、最初の監督が王さん。小鳥が最初に見たものを親だと思うのと同じように、僕は王さんのことを親父だと思っています。たくさんの金言も授かってきました。今も胸にしまっています。

【出過ぎた杭は打たれない】

── 王監督の言葉で特に印象に残っているものは何でしょう?

城島 節目のたびにいろいろな言葉を授かりました。たとえば若かった頃、僕はヤンチャだったので先輩から怒られたりいろんなことを言われたりしたものです。ヘコたれることはなかったですが、王監督はそんな僕を見て「ジョー、出る杭は打たれるけど、出すぎた杭は打たれない。特別な存在になりなさい。相手が金槌で叩けないくらい出すぎるんだよ」と。そんなふうに言ってくれたのです。あぁ、いい言葉だな、じゃあ出すぎてやろうと思いました。そして、ケガをしたり、不振に陥ったりした時は「ジョー、試練は乗り越えられる者しかやってこないんだ」とよく言われたものです。

── いい言葉ですね。

城島 また、ある時は、「高い壁の向こうにはどんな景色が待っていると思う?」と尋ねられました。王さんは景色という言葉をよく使います。つまり、活躍した先のこと。僕は苦しい練習を乗り越えた壁の向こう側には、お花畑が広がる天国のようなすごく心地いい世界が広がっていると思うと答えました。でも、王さんは「ジョー、違うんだ」と。高い壁をやっとの思いで越えていったら、向こう側にはもっと高い壁があるんだ。その景色は乗り越えたヤツしか見ることができないんだよ。そして、そのうちやっと登った壁から落ちてしまうこともある。だけど一度登れば、登り方を知っているからそれは壁だと感じなくなる自分がいるんだよ」と教えられました。

 野球選手は引退するまで常に高い壁と向き合い、それを乗り越える挑戦をしなければならないのです。今、僕は球団のフロント職に就いているので、毎年新人が入ってくるたびにその話をします。王さんしか知らない868本塁打の景色がある。世界でただひとりですよ。いつかホークスから869号を打つ選手が現れて、誰も見たことがない868本塁打の向こう側の景色を見てほしいと思いますし、先ほどのも含めた3つの言葉は自分のメモ帳に残しています。

つづく>>


城島健司(じょうじま・けんじ)/1976年6月8日生まれ、長崎県出身。別府大付高(現・明豊)から94年ドラフト1位でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。入団3年目の97年から正捕手となり、99年は全試合出場を果たし、球団初のリーグ優勝、日本一に貢献。その後も"強打の捕手"としてホークス黄金期を支えた。2006年にFA権を行使し、シアトル・マリナーズに移籍。捕手としてレギュラーを獲得し、18本塁打を放った。その後、09年までプレーし、10年に阪神で日本球界復帰。12年に現役を引退し、趣味である釣り番組に出演するなどタレントとして活動していたが、20年からソフトバンクの会長付特別アドバイザーとして球界に復帰。25年からホークスのCBO(チーフ・ベースボール・オフィサー)に就任した

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