国内SaaS業界トップランナーのラクス。ファーストライト・キャピタルの「SaaS Annual Report 2024-2025」によればARR(年間経常収益)403億円を誇る。メールディーラーや楽楽精算など複数のSaaSを展開する同社は、国内上場SaaS企業の頂点に立つ。そんな業界の雄は今、AI時代の到来をどう見据えているのか。
「SaaSが死ぬかどうかってそんなに興味ない」。米Microsoftのサティア・ナデラCEOが「SaaSの時代は終わった」と発言し業界に衝撃を与える中、ラクスの中村崇則社長は意外にも冷静だった。では本当に恐れているものとは何なのか。業界トップが明かすAI時代の生存戦略を聞いた。
●「興味ない」発言の真意 AIの「真の脅威」とは?
Microsoftのサティア・ナデラCEOが今年、「SaaSの時代は終わった(SaaS is dead)」と発言し、クラウドサービス業界に激震が走った。業界関係者が議論を交わす中、当事者であるSaaS企業トップはこの発言をどう受け止めたのか。
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「SaaS is Deadみたいな話がありますが、あまりそこに興味がないというか。そもそもSaaSという言葉が出てきただけで、もともとはASPと呼ばれていました。それがSaaSであろうがSaaSでなかろうが、どちらでもよいと思っています」
予想外の答えだった。業界を揺るがす発言を、中村社長は一蹴する。SaaSも本質的にはASP(アプリケーション・サービス・プロバイダー)と同じビジネスモデルだというのが中村社長の視点だ。
「同じように、『DXからAX』とは思っていなくて、AIもデジタル化の一環だと思います。DXが一番広い概念で、DXの一環としてAIを活用するということがあるのかなと」
業界の大議論を次々と「興味ない」と言い切る姿勢は、一見すると現状への楽観視にも映る。しかし中村社長の真意は別のところにあった。
●本当の脅威への危機感
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では、中村社長が本当に脅威と感じているのは何なのか。
「メールのやり取りはテキストでのコミュニケーションなので、そこはLLM(大規模言語モデル)が得意な中心部分です。そこに対応しないと、代替される可能性が一番高い。電話やメールなど、テキストでのコミュニケーションはAIに代替される可能性がすごく高いので、対応しないとディスラプトされるのではないかと思います」
SaaS業界全体の議論ではなく、具体的な業務領域への脅威。これが中村社長の危機感だ。だからこそ同社は5月、問い合わせ対応システム「メールディーラー」へのAIエージェント機能搭載を発表した。
「影響が一番大きいからメールディーラーから始めた」と中村社長は説明する。
この危機感のきっかけは、実際のAI体験にあった。「Deep Researchが使えるようになって、これまでだったら何時間もかかっていたようなものが勝手に集めてまとめられる。それを使っていくと、もっといろんなことが自動化されてくると実感しました」
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理論的な議論ではなく、身をもって感じた自動化の威力が、具体的な危機感へとつながったのである。
●AIエージェントの真の価値
ラクスがAIエージェントを導入する真の狙いは何なのか。中村社長は、その価値をこう話す。
「これまで10人でやっていた業務を、2人ぐらいに減らすようなチャレンジだと思います。メールディーラーでは、そのチャレンジができる。テキストでのやり取りの自動化によって、これまでのメール管理ではなく、カスタマーサポートの人員を、これまでの10人から2人ぐらいに減らせるということです」
5分の1への人員削減。これは単なる効率化を超えた、劇的なコスト削減効果を意味する。しかし、全ての業務で同様の効果が期待できるわけではない。
「自社で言うとメールディーラーが最も効果的ですね。他のバックオフィス系は、やはりどうしても人がいて、AIがその人の業務をサポートするという機能なので、なかなかヘッドカウント(人員)の削減とはいかないです。例えば経費精算は、自動化してもヘッドカウントは減らない」
つまり、AIエージェントが真に普及するのは、明確な人件費削減効果を示せる分野からということだ。この現実的な価値判断が、ラクスのAI戦略の優先順位を決めている。
●既存企業の強み
AIの普及によって、既存のSaaS企業は駆逐されてしまうのだろうか。中村社長の見立ては冷静だ。
「思っているほど簡単にひっくり返せないと思います。当社含め各社が全力でAI対応していくという段階で、顧客から見ると他社に変える意味がなくなります。今のものがブラッシュアップされてくるし、AIに移りたければAIもやっているので、データはそのままでAIエージェント機能をアドオンすれば使えるようになりますから」
蓄積されたデータの価値も大きい。「メールディーラーで言うと、メールのやり取りはそもそももうデータとして蓄積されています。もうすでに何年分か、もっと言うと、10年分とかのデータが貯まっていますから、過去のデータから適切なやり取りの文面を作り出すというところにおいては、やはり有利に働くと思っています」
変化のスピードについても、一般的な予想より慎重な見方を示す。「主流が切り替わるのは5年とか10年というスパン。B2Bでは実績があるものを、おいそれとは変えないんです。『イノベーションのジレンマ』(クレイトン・クリステンセン著)にも書いてありますが、油圧式の工作機械が出てきた時に、油圧式に移行していくのに10年以上かかっています。いったん業務として回っているものを、流行(はや)ったからといって簡単に変えるかといったらそうでもない」
「B2Bで私自身が一番いいと思っているのは、突然大きく変わらないこと。変化していくだけの時間的余裕と、変化のためのチャレンジをできるのがB2B市場だと思っています」
●ラクスの野望
AI時代の変化の中で、ラクスはどこを目指すのか。
「日本を代表する企業というところを目指しています。規模感としては今の4、5倍まで持っていかなくちゃいけない。そのためにSaaSのポートフォリオを組んでいって、それにAIを付け加えていく。パーツがそろえば、汎用AIエージェントを作ることもできる」
現在ARR403億円の同社が4〜5倍となれば、2000億円規模の企業となる。これは国内SaaS業界では前例のない規模だ。
その実現に向けて、中村社長は社内でシンプルなメッセージを発し続けている。「最近社内では、『AIとスピード』しか私は言ってないんです。スピードを上げてこのAIの変化というところに振り落とされないよう、ついていくということが重要です」
そして、ここでSaaS終了説を「興味ない」と一蹴した理由が明確になる。中村社長にとって重要なのは、SaaSという言葉や概念の議論ではない。「やらなくちゃいけないことの中心は、今自分たちが持っている技術やドメイン知識に対してAIをアドオンして、いかにお客さまの役に立てるものを提供していくかに尽きる」
中村社長は歴史の教訓も引き合いに出す。「インターネットが出てきて、会計ソフトをスタンドアローンでやっていた会社がいなくなったかというと、クラウド専業の新興ベンダーよりも大きな規模で事業を続けています。私たちで言うと、もともと持っていたSaaSの資産を生かしてAIに対応していくということです」
AIは「クラウド」に続く技術革新の一つなのか、それとも既存のソフトウェア産業をひっくり返すほどのゲームチェンジャーなのか。AIの急速な進化が続く中、その答えはまもなく明らかになるだろう。
(斎藤健二)
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