教卓から見える景色が好きだった。一人ひとり違う子供たちの顔。笑ったり、怒ったり、泣いたりしながら、日々成長していく様子を見守ることが生きがいだった。
だが、突然おそってきた病魔に「天職」だった教師の仕事を奪われてしまう。“泣きながら暮らしていた”という日々を乗り越え、いま彼女は児童文学作家として別の形で子供たちに喜びを与えている。命を削りながら書く元小学校教師の物語。
■小説を書き始めてわずか3年でデビュー
《いったい、色に名前をつけたのはだれだろう。くちびるはどうして“赤”なんだろう。そんなことさえ腹立たしく思えた》
先天的に一部の色を見分けることができない色覚障がいは男性で20人に1人、女性で500人に1人いるといわれている。
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『ぼくの色、見つけた!』(講談社)の主人公、信太朗もそんな色覚障がいのある子供だ。小学2年生のとき、自画像の唇を茶色に塗り、クラスメートに「おまえ、チョコレートを食べたのかぁ」とからかわれたことにショックを受ける。
同作は信太朗が葛藤やさまざまな人との交流を通じて、信太朗の家族が“ララ”と呼ぶ、生きていくのに欠かせない大切なものを探していくという成長物語だ。
出版直後から本作は評判になり、2025年の「青少年読書感想文全国コンクール」の課題図書(小学校高学年の部)に選ばれた。すでに8万部のヒットになっているという。
「私の教え子にも、色覚障がいの子がいました。ミニトマトの色が見分けられなかったり、顔を緑色に塗ってクラスメートに『河童だ』とバカにされたりね。こうした子供たちの存在が、この作品を書く動機になりました」
岐阜県中津川市にある自宅で、穏やかにそう語るのは、元小学校教員で、児童文学作家の志津栄子さん(64)。60代でデビューした異色の作家だ。
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小説を書き始めてわずか3年後の2022年に、中国残留邦人の孫である少年を描いた『雪の日にライオンを見に行く』(講談社)で、「第24回ちゅうでん児童文学賞」の大賞を受賞し、作家デビュー。
2024年5月に『ぼくの色、見つけた!』、同年6月に『かたづけ大作戦』(金の星社)を出版。今年はさらに2作の出版も予定している“期待の新星”だ。
だが、その後半生は苦難の連続だった。40代から次々と病気を発症し、離婚も経験。それでも教壇に立ち続けたが、ついに力尽き、失意のうちに退職に追い込まれた。
「この春にも吐血しました。コップ半分ほどかな。もう肺がダメになっているんです。対症療法しかない感じですね」
自己免疫疾患で肺の機能が落ちているために、常に酸素チューブを外せない。外出もままならない絶望のなかで、自分を救ってくれたのが物語を書くことだった。
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「病気のために、もうどこにも行けないし、仕事に出ることもできません。神様が配ってくれたカードを次々と手放してしまって、最後に残った1枚が書くことなんです。私にはもうこれしかない。書くことがあるから、私はまだ立っていられるんです」
■「無理です」と一度は断った小学校教師。でも、いつしか「天職」と思うように
志津(旧姓・木村)栄子さんは1961年、専業主婦の母と会社員の父との間に3人きょうだいの第2子として岐阜県中津川市で生まれた。
「茶商を営んでいた母方の祖父は文化的な人で、たくさんの絵本を買い与えてくれました。小学生になってからは『長くつ下のピッピ』とか『あしながおじさん』とか、宮沢賢治の作品を読んでいましたね」
のちに自身が教鞭をとることになる市内の坂本小学校に通った。
「中学、高校は詩を書いたり物語を書いたりして、雑誌に投稿して掲載されたこともあるんです。高校では寺山修司さんに憧れて演劇部へ。作家への憧れを漠然と抱いていました」
当初は4年制の大学を目指したが、学費の懸念があり、公立校の京都府立大学女子短期大学部に進学。「国語科」を選んだのは、文章を書くことにいちばん近い学科だと思ったからだ。
「京都の生活はとても楽しかった。もっと自由の国にいたかったけれど、帰らないと母が心配するだろうとか、思ってしまって。優しい母で大好きだったんですが、それゆえに逆らえなくて。就職するときも、そして結婚するときも、常に母が安心するほうを選んでいたのだと思います」
作家への夢は封印し、母を安心させる手堅い就職先を探した。
「岐阜県が独自に、中学校と小学校と両方勤務できる先生を育成するプロジェクトを行っていた年だったんです。学校では中学の国語の免許しかとってなかったんですけど、『せっかくだから』と受けたら、小学校の教員として採用するという話になって……」
中学校と違い、小学校の教員は国語以外の教科も担当しないといけない。最初は断ろうと思った。
「面接で『無理です』って言ったんですよ。すると、面接官の方が『時間をやるから考えてきて、午後にもう一回来なさい』っておっしゃったんですよね。それで、近所をぶらぶらして、小学校をのぞいてみたりしてたら、『何かの縁だからやってみるか』と思って」
第二次ベビーブームで生まれた子供たちが小学生となり、教員不足が叫ばれていた時代だった。こうした時代背景も手伝って、1981年、弱冠二十歳の新米教師が誕生した。最初の職場は岐阜県土岐市内の小学校だった。
「仮免許ということだったのに、1年目から担任を持たされてしまって。並行して、大学の通信講座で小学校教員に必要な単位を取得して、学校のオルガンを借りて、ピアノの猛特訓もしました。
今思い出すと、顔から火が出るようなことばかりで。遠足に行ったとき、子供たちがおやつを分けてくれたので、ジャングルジムに座って一緒に食べていたら、学年主任の先生が『先生と子供は違うんだから、そんなところでお菓子を食べるのはダメだよ』と注意されて……」
そう苦笑するが、子供の目には偉ぶらない“話のわかる先生”と映ったに違いない。すぐに生徒たちの信頼を勝ち取った。4年後に県内の別の小学校に転勤となるが、日曜日に前の学校の子供たちが電車に乗って家に遊びに来るほど。
「10人くらい連れて川で遊んだり、どんど焼きをしたり。いまなら問題になるんでしょうね(笑)」
特に力を入れたのは綴り方(作文)の授業と、学級通信作り。素直に書かせることと、学級通信に何でも載せることを心がけた。
ある年、学校の倉庫に保管してあった夏祭りで余った備品のスーパーボールを、子供たちが盗んで遊びに使う事件が起きた。クラスの7割ほどの子供が盗んでいたというが、そのときの学級通信には、反省文や、反省会の議事録みたいなものまで掲載されている。
「普通は盗んだことなんて書かせませんよね。それぞれ、つられちゃったから心が弱かったとか。自分はやってないという子もいたけれど、考えあうことも勉強なので」
1987年に、同僚の教師と26歳で結婚。夫の両親や妹、母方の祖母までいる大家族に“嫁入り”した。他人のなかで生活する息苦しさを感じることもあったが、義母が子供の面倒を見てくれたので、一男一女に恵まれたのちも仕事にまい進することができた。
いつしか教職を“天職”とさえ思うように。この時点では教師を辞めることも、作家になることも想像もしていなかった。
(取材・文:本荘そのこ)
【後編】作品が読書感想文の課題図書に「長くは生きられないから」元小学校教師作家が難病と戦いながら書き続ける理由へ続く
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