
世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第24回】マティアス・ザマー(ドイツ)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。
第24回は1990年代のドイツサッカーを牽引したマティアス・ザマーを取り上げる。「フォアリベロ」という唯一無二のポジションを確立し、DFとしてバロンドールも受賞するなど、静かに革命をもたらした稀有なフットボーラーだった。
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第二次世界大戦に敗れたドイツは1949年、連合国の分割占領により東西に分かれた。いわゆる分断国家である。厳しい監視下に置かれた東側の人々は、不自由すぎる生活を強いられた。しかし、東ドイツがさまざまな競技で超一流アスリートを輩出していった歴史も見逃せない。
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フィギュアスケートのカタリナ・ヴィットは1984年サラエボと1988年カルガリーの冬季オリンピックを連覇し、世界選手権4回優勝、ヨーロッパ選手権6連覇。絶対女王として君臨した。陸上のマリタ・コッホは1985年に女子400mで47秒60の世界記録を樹立。40年が過ぎた今もその記録は破られていない。
フットボールの世界でも、トップに上り詰めた選手は少なくない。レバークーゼン、バイエルン、チェルシーで活躍したミヒャエル・バラック、バイエルンとレアル・マドリードでまばゆい光を放ったトニ・クロースが東ドイツ出身であり、今回の主役を務めるマティアス・ザマーもドレスデンで生を受けている。
少年時代はシュタージ(秘密警察)にコントロールされながら、1989年に勃発したベルリンの壁の崩壊によって生活は一変。東西ドイツは統一され、民主化の波が一気に押し寄せた。
【東ドイツ出身者として初の快挙】
1990年、ディナモ・ドレスデンからシュトゥットガルトに移籍したザマーは、即座に頭角を現していく。1シーズン目はリーグ30試合・11ゴール、2シーズン目は33試合・9ゴール。中盤に君臨する威風堂々とした姿は各方面から高く評価され、1992年夏にはインテルに新天地を求めた。
だが、セリエA特有のシステマティックな戦術が性に合わなかった。中盤から前線に飛び出し、状況打開を図るプレーは「リスクが大きすぎる」とメディアに批判された。生活圏までも侵害してくる熱狂的なファン「ティフォージ」にも閉口した。
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1993年1月、より自由なフットボールを志向したザマーはボルトムントへ移籍する。この決断が転機になった。
移籍初年度はシーズン後半だけで17試合・10ゴール。やはりブンデスリーガのリズムは心地がいい。1994-95シーズンはクラブ初のブンデスリーガ優勝に貢献し、翌シーズンも連覇の立役者となった。
1996年はバロンドールに輝き、ドイツ代表でヨーロッパ選手権制覇とMVPを獲得。さらに1996-97シーズンはチャンピオンズリーグを制するなど、いずれも東ドイツ出身者としては初の快挙を成し遂げている。まさに我が世の春だった。
なお、DFでバロンドールに輝いたのはフランツ・ベッケンバウアー(1972年・1976年/バイエルン)、ファビオ・カンナヴァーロ(2006年/ユベントス→レアル・マドリード)、そしてザマーの3人しかいない。
人は誰にも運命的な出会いがある。ザマーも同様だ。1993年、失意のままインテルからドルトムントにやってきた彼を待っていたのは、オットマー・ヒッツフェルト監督である。
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主力の負傷や不振による穴を補填するための緊急措置だったが、ドイツが誇る名将はザマーを中盤からリベロにコンバートした。リベロとはイタリア語で自由を指し、1970年代のベッケンバウアーが代名詞だった。皇帝は最終ラインから優雅にゲーム全体をコントロールした。
【全盛期のザマーに襲った病魔】
ザマーはより攻撃的だった。中盤まで上がってゲームを創り、時には最前線に姿を現す。攻撃に厚みと意外性をもたらす彼の役割は「フォアリベロ」と呼ばれ、1990年代後期のフットボール界に多大な影響を及ぼしている。
無理をしてインテルに留まっていたら、ヒッツフェルト監督に出会わなかったら、ザマーは脚光を浴びずに引退していたかもしれない。フォアリベロというポジションも誕生しなかったかもしれない。人生とは実に数奇なものだ。
なお、当時のドルトムントはミヒャエル・ツォルク、ジュリオ・セザールという強力なセンターバックを擁していた。対人動作に絶対の強さを持つ彼らがいたからこそ、ザマーはそれなりに自由を得られた見方もあるだろう。
しかし、ゲームメイクに優れ、ゴール、アシストにも積極的に関与するザマーも特別な存在だった。フォアリベロのポジションを確立したのは、後にも先にも彼ひとりである。
ザマーは誰もが認める名手であり、ドルトムントに、ドイツ代表に不可欠な選手として、輝かしいキャリアを描くはずだった。ところが、病魔に侵される。
20代後半からひざの痛みが慢性化。痛み止めの注射やリハビリで完全復活を図っていたが、1997年10月の手術で悪性の感染症を患った。一時は命さえ危ぶまれている。
幸いにして一命を取り留め、1998年のフランスワールドカップを目指したものの叶わず、1999年に31歳の若さで引退を余儀なくされている。円熟期を迎えようとしていた矢先のアクシデントは、さぞかし悔しかったに違いない。
仮に健康体であれば、さらなる栄冠がザマーのもとに歩み寄り、彼の名声はより確かなものになっていた公算が非常に大きい。ヒッツフェルト監督も「適当な言葉が見当たらない」と、早すぎる引退を惜しんでいた。
それでも、ザマーはドルトムントに帰ってきた。2000年7月に監督就任。翌2001-02シーズンは6年ぶりのリーガ優勝に導いている。当時34歳。史上最年少の優勝監督として歴史に名を刻んだ。
【裏方で「ミネイロンの惨劇」にも関与】
その後、シュトゥットガルトの監督を経て、2006年4月にはドイツサッカー連盟のテクニカルディレクターに就任。若年層の育成から代表再建のプランまで、幅広く強化に着手した。そして彼の努力は2014年のブラジルワールドカップで実を結ぶ。
1990年のイタリアワールドカップ以来、6大会ぶりの世界制覇だ。トーマス・ミュラー、ミロスラフ・クローゼといったドイツらしいタイプが、メスト・エジルやマリオ・ゲッツェなどの技巧派と融合するチームは、魅力にあふれていた。
圧巻は準決勝のブラジル戦だ。開催国が1-7で大敗した試合は「ミネイロンの惨劇」として語り継がれ、ドイツの強さを満天下に知らしめた一戦である。個性的な選手たちをまとめたヨアヒム・レーヴ監督はもちろん、メンバー選考に深く関わったザマーも功労者であることに疑いの余地はない。
現在、ザマーは第一線から退き、ドルトムントのマネジメントアドバイザー(顧問)として若者たちを見守っている。2016年に軽度の脳梗塞を患った経緯から、過プレッシャーの要職にはつけないのだろう。したがって、現場復帰は考えづらい。
ただ、バイエルンのディレクターを務めていた当時に、フリーだったジョゼップ・グアルディオラを監督に招聘した実績がある。将来の名監督候補を秘かにリストアップし、新たな潮流を引き起こす可能性も否定はできない。
現役当時のザマーは大胆、かつクレバー、スマートだった。人事面でも、世界のトップに立つのではないだろうか。名監督のそばにザマーあり──。不敵な笑顔が目に浮かぶ。