
日本航空123便が墜落してから12日で40年です。520人が亡くなった群馬県の「御巣鷹の尾根」。遺族の思いを胸に、山を守り続けている男性を取材しました。
「月に26、27回で登るよ」“御巣鷹の守り神”事故で父を亡くした 島本喜照さん
「私がANAで、父はJALという形ですね」
29歳で父親を亡くした島本喜照さん(69)。
あの日は、父親と同じ日本航空123便で大阪に向かう予定でした。しかし、お盆の混雑でチケットがとれず、喜照さんは別の便に乗ることになったのです。
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運命の分かれ道でした。
事故で父を亡くした 島本喜照さん
「(着陸して)JALのカウンターに行ったら、黒山の人だかりで、飛行機が落ちたんだなと初めてそのとき分かりました」
それから40年、毎年欠かさず御巣鷹の尾根に登ってきました。
8月1日、2025年も慰霊登山に訪れた喜照さんと写真を撮っていた一人の男性。
事故で父を亡くした 島本喜照さん
「山の守り神みたいな存在です」
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黒澤完一さん(82)は、“御巣鷹の守り神”です。19年前から、山の二代目管理人を務めています。
御巣鷹山の管理人 黒澤完一さん
「月に26、27回で登るよ。先月は27回登ったよ。1回休んだらダメだから」
ほぼ毎日山に入り、墓標の掃除などを行っています。
手作業で手すりや橋などを設置「本当に感謝しかない」上野村で生まれ育った黒澤さんは2006年、村からの依頼で二代目の管理人に就任しました。
御巣鷹山の管理人 黒澤完一さん
「軽い気持ちだった。行っても行かなくてもいいような気持ちだった」
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しかし、山で遺族と接するうちに気持ちに変化が。
御巣鷹山の管理人 黒澤完一さん
「ちょっと私のとこ寄ってね、いろいろ昔話したりなんかしててね。お昼食べながら色々話をして2時間ぐらい休んでた。それから遺族からね、『手伝ってもらって、道が良くなった、歩き良くなった』とかね、遺族のそういう声も聞こえたしね」
事故から何年経っても、御巣鷹の尾根に登り、墓標に手を合わせにくる遺族。
少しでも上りやすいようにと、山の整備に力を入れるようになりました。
この日は、古くなった慰霊碑へと続く木製の階段を手作業で新しいものに取り換えていました。
御巣鷹山の管理人 黒澤完一さん
「私が登れる道幅のね、勾配、角度。そういうのは自分で考えてね、作ってるわけ。私が登れたら皆さん登れる。私が大変だったらみなさんも大変よ」
重機が入ることができない御巣鷹の尾根。黒澤さんは、慰霊に訪れる遺族が登りやすいよう、手作業で資材を運んでは一段一段、階段をつくり、手すりや橋などを設置してきました。
遺族は、「黒澤さんのおかげで年を追うごとに安心して慰霊登山ができるようになった」と話します。
事故で父を亡くした 島本喜照さん
「僕の所(墓標)はC4っていう所なんですけれど、すごく激しい険しいところなんですね。道なき道を登って行かないと現場にたどり着けませんので、その山道をつくってくれておりました、転倒しないようにとか。もう本当に感謝しかないです」
黒澤さんは花を供えやすいよう、水くみ場も作りました。
御巣鷹山の管理人 黒澤完一さん
「皆さんお参りきて、静かにお参りして帰っていただく、それでいいの、それが一番いいの」
標高1600mを超える山での作業は決してラクではありません。黒澤さん自身も高齢になり、体力的な負担は大きくなっています。それでも山の整備を続けます。
命の大切さを受け止め、体が動く限りこれからも…御巣鷹山の管理人 黒澤完一さん
「山で仕事して帰ったら、俺んちに救急車が停まっていた」
4年前、50年以上連れ添った妻・節子さんを病気で亡くしました。コロナ禍で、最期に会うことすら叶いませんでした。
ある日突然、大切な人を失うことの辛さ。この山で遺族から何度も聞いた「命の大切さ」。それまで以上に遺族の想いを受け止められるようになったといいます。
事故から40年。高齢になり、慰霊登山を断念する遺族も増えました。
御巣鷹山の管理人 黒澤完一さん
「この方は毎年替えてるんですよ」
幼くして息子を亡くしたという遺族の思いを引き継いで、毎年、赤いパーカーを新しいものに替えているといいます。
黒澤さんは、体が動く限りこれからも山に登り続け、遺族のために御巣鷹の尾根を守りたいと話しています。