極寒の重労働、飢餓に耐え=反戦願い、90歳超え語り部に―「同じ経験させない」・シベリア抑留80年

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2025年08月23日 15:01  時事通信社

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時事通信社

講演会でシベリア抑留体験について話す語り部の西倉勝さん=3月23日、東京都新宿区
 80年前の8月23日は、旧ソ連の指導者スターリンが旧日本軍捕虜らのシベリア抑留に関する秘密指令を出したとされる。相模原市の西倉勝さん(100)は、3年近くにわたる極寒の重労働や飢えに耐えて生還した。「私と同じ経験をさせてはいけない」。90歳を超えてから語り部となり、平和への思いを訴え続ける。

 東京都内の飛行機エンジン製造工場に勤めていた1945年1月、召集令状が届いた。「いよいよ来たか」。19歳で覚悟を決めると、新潟県二田村(現柏崎市)の実家に帰省し、悲しい表情の家族に別れを告げた。

 同月末に朝鮮半島北部の会寧に送られ、約3カ月間の基礎訓練を受けた後、関東軍の部隊に配属。ソ連国境付近で陣地を構築していた時に終戦を迎えた。敗戦が信じられず「捕虜になれば殺される」と、自決用の手投げ弾を胸ポケットに忍ばせた。

 武装解除後、旧満州(中国東北部)の延吉でソ連兵から「200キロ歩けば日本に返す」と伝えられた。野宿しながら約10日間歩き、沿岸部にたどり着くと、20両ほどの貨物列車に1両約50人ずつ詰め込まれた。

 南方の港に向かうはずが、方位磁石を持った仲間が「北に向かっている。行き先はシベリアだ」と気付いた。「もう駄目だ」「だまされた」。車内に上がった悲鳴は今も耳に残る。

 45年10月、列車は収容所がある極東コムソモリスクに到着。抑留生活は「人間扱いではなかった」。気温はマイナス20度ほどだが、軍服は夏服のまま。宿舎で渡されたのは毛布1枚で、寝る際は仲間と3人で抱き合って寒さをしのいだ。

 収容から間もなく、水道管埋設のため地下約2メートルまで掘削する作業に駆り出された。地面は凍り、つるはしで掘ろうにも何度もはね返された。資材運搬や建築工事などの作業もあり、1日約8時間の肉体労働を週6日強制された。

 主食は酸味の強い黒パンで、作業ノルマが達成できないと配給量を減らされた。栄養失調などで亡くなった仲間は、収容所近くの森に葬られた。「故国の土を踏むまではシラカバの肥やしになるまいぞ」を合言葉に励まし合った。

 48年7月、極東の港ナホトカから引き揚げ船に乗り、舞鶴港に帰国。列車を乗り継いで新潟に戻り、家族と再会できた。

 その後、都内で会社員などとして働き、仕事に区切りがついた2017年、90歳を過ぎて平和祈念展示資料館(新宿区)の語り部となった。千鳥ケ淵戦没者墓苑(千代田区)で例年8月23日に開催される追悼の集いには今年も参加予定だ。「戦争だけは起こしては駄目だ。命ある限り伝えたい」と力を込める。 




出征前の西倉勝さん(左から3人目)と家族(本人提供)
出征前の西倉勝さん(左から3人目)と家族(本人提供)
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