【WBA&WBC世界フライ級王座統一3.13決戦】拳四朗を肉体面で知り尽くした「第3の目」(12回連載/第5回)

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2025年09月20日 15:20  週プレNEWS

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2025年3月13日、東京・両国国技館で開催されたWBA&WBCフライ級王座統一戦。阿久井は、拳四朗と一緒に幾度も修羅場を潜り抜けてきた参謀・加藤の「トレーナーとして負ける理由はひとつも作らない」という信念を覆すような踏ん張りを見せた。

想定していた以上に苦戦を強いられた拳四朗ーー。そんな中、拳四朗の肉体・体力面を冷静に分析し、持てる力を余すことなく発揮させるために尽力していたのが、フィジカル担当・篠原茂清だった。身長180センチを悠々と超える筋骨隆々の体躯は、セコンドに付いたリング上でもいつもひときわ目立つ。一方で、身長165センチの拳四朗を、常に目立たぬ所で支えていた。

【写真】プロデビュー戦を迎えた拳四朗

*  *  *

「私自身は、『拳四朗君はまだフライ級に適した体づくりは出来ていない』と見ていたので、そのあたりは気がかりでした。フライ級に転向したことで減量にも以前よりは余力も出て、試合前の肉体強化も、より集中出来るようになりました。脚の筋肉が太くなって体重を増やさないために、瞬発力を高めるダッシュ系のトレーニングは避けていましたが、今回は取り入れることも出来ました。

ただし、フライ級で力を最大限発揮出来るようになるまでには、もう少し時間が必要と考えています。逆にユーリさんは、長くフライ級でやってきているので、『拳四朗君に対する対策として、筋量をより増やしてから体重を落とすことでフィジカル面を上げてくるはず』と思いました。フライ級に適した身体にまだ完全にはなっていませんが、戦えるだけの体づくりは出来ました。コンディションは良かったと思います。それでも、『力と力をぶつけ合うような戦い方をすれば、苦戦するかもしれない』と見ていました」

■制限時間30秒。拳四朗を整える男

篠原は、アスリートの身体能力の向上に特化した指導をする筋力・コンディショニングの専門家、いわゆる「ストレングスコーチ」で、ボクシング以外の格闘技や野球、競輪など指導分野は多岐にわたる。ケガをしない体づくりを重視する指導で知られることから、「最後の頼みの綱」として訪れる元トップ選手も多い。拳四朗は数少ない、デビュー前から指導して世界の頂点を極めた選手でもあった。

90年代に日本そして東洋太平洋(OPBF)タイトルを獲得し、日本ボクシング界重量級の第一人者として活躍した父・永(ひさし)も指導するなど親子二代、30年以上も関わって来た。ちなみに、日本と東洋太平洋の王者になった永の生涯戦績も「24戦20勝(11KO)1敗3分」という輝かしいものだ。

「初回、ユーリさんの左ジャブを見て、『これは今までとは違う展開になる』とすぐに思いました。いつもなら拳四朗君がジャブの打ち合いで負けることはない。一発、良いジャブを当てれば、試合の主導権を握ることが出来ました。でもユーリさんは、拳四朗君を徹底的に研究して、そして強い気持ちも持って試合に挑んでいました。それを見た時、『相当、厳しい試合になるかもしれない』と思いました」

一進一退の攻防が続いた試合は4回、拳四朗が攻勢を強めて流れを引き寄せかけた。しかし、阿久井は続く5回、被弾しながらも前に出て反撃。ジャブから右ストレート、さらにはボディアッパーを織り交ぜて応戦した。

阿久井の執念に、参謀・加藤も焦りを感じる展開ーー。

篠原はそうした状況下、ボクシングトレーナーの加藤や横井とは異なる視点を持つ「第3の目」として、試合を分析していた。

「戦術について指示を出す役割は、加藤さん、気持ちを奮い立たせる役割は、横井さんがいます。私自身は、試合中に拳四朗君に何か話しかけることはありません。試合中に出来ることは、『インターバルで、どれだけ体力を回復させるか』だけです。ただし、拳四朗君の体力や筋力を回復させるための手段は、誰よりも理解しているつもりです。それだけは、誰にも負けない自信があります」

拳四朗は過去にも、際どい判定で初の世界タイトルを掴んだ2017年5月20日のガニガン・ロペス(メキシコ)戦、2021年9月22日の矢吹正道(緑)戦など、厳しい試合はあった。篠原は当時も、プロデビュー時からセコンドに付いて来た経験を踏まえて、「自分は何が出来るか」を考えながら役割を全うしてきた。阿久井戦でも、やるべき仕事は変わらなかった。

回ごとのインターバルは60秒。しかし実際、セコンド陣が選手をサポートできる時間は、30秒程度しかない。拳四朗の右のパンチ、攻撃に調子の良さを感じた篠原はインターバル時、右肩を中心にアイシングやマッサージをした。体力の消耗や疲労からパンチの精度にブレを感じた6回以降は、合わせて、骨と筋肉をつなぐ腱に炎症の兆候が感じられた右足のふくらはぎ、太もも裏に、より注意しながらアイシングをして回復に努めた。

「腱(付着部)の炎症は、とにかくどれだけ冷やせるかが大事です。疲れてくると、オーソドックス(右構え)は重心が前足ーー拳四朗君なら左足ーーに寄りがち。前足に乗り過ぎると骨盤の回旋が働かず、正確で威力のあるパンチが打ちにくくなります。逆に、後足(右足)にしっかり体重が乗れば、骨盤=重心が安定して、上半身の筋力に頼らずに打てる。だから、右足の炎症を抑えて後足荷重を保てるよう、ふくらはぎと太もも裏の付着部を集中的に冷やし続けました」

■最初は「競艇選手」を目指したボクシング世界統一王者

篠原は拳四朗を高校時代から指導してきた。ただし、最初は「ボクサー」ではなく「競艇選手」を目指していた時だった。

「拳四朗君が高校2年生の時、寺地会長から『息子が競艇の試験を受けるので、鍛えてやってください』と頼まれたのがきっかけです。もっと言えば、最初の出会いは寺地会長の現役時代で、ほかの選手の試合観戦に、一緒に出かけたときでした。拳四朗君はまだ四つん這い歩きの頃でした。私の膝の上で、お客さんの歓声が響く中、気持ちよさそうに眠っていたのを、いまも時々、思い出します」

高校時代、キックボクシングやフルコンタクト空手で無謀な稽古を重ね、膝や肩、頚椎などを故障した篠原。競技を続けられないほどの怪我をした経験から「正しい方法で、壊れない体をつくる」ことの重要性を痛感し、診療所勤務の傍らスポーツ医学を独学で学び、阪神や近鉄(現オリックス)などプロ野球選手のリハビリ・栄養指導にも携わった。大阪厚生年金病院スポーツ医療センターで一般高齢者のリハビリ指導を経て、2003年に独立し、パーソナルジムを開業した。

拳四朗の父・永との縁は1992年、永がのちにミドル級で日本人初の世界王者(WBA)になる竹原慎二(沖)に挑み、敗れた直後に始まる。翌年8月の日本ミドル級王座再挑戦時にはセコンドライセンスを取得して支え、永は3度目の正直で念願の日本王座を獲得した。篠原はそれから、永が37歳で引退するまで、全試合でセコンドを任された。

前述したように、競艇選手を目指していた拳四朗は父親に勧められるまま、篠原を訪ねて来た。篠原は、

「本人は覚えているかどうか知らんけど、私とのトレーニングは、本気でやる気はなかったように感じました」

と話した。

拳四朗は、従兄弟に競艇選手がいた影響もあり、「賞金も良く、選手寿命も長い」という理由だけで目指した選択に、人生を懸けて取り組める程の情熱は持てなかったようだ。試験は2度受けたものの、吉報は届かなかった。

再会は大学卒業後、今度は父親と同じように「プロボクサー」を目指すためだった。ただし当時は、日本ランキング5位以内に入り、競艇学校に入学出来る特別枠を得るための「手段」に過ぎなかった。

「最初は高校時代と同じで、本気度は感じられませんでした。ただ、ボクシングに必要な身体の使い方を試させてみると、何でも器用にこなせました。良いパンチを打つための肩甲骨の使い方や、身体の軸をつくる片足でのバランス立ちなども、教えればすぐに出来るようになりました。

私の指導は月2回だけ。そのたびに宿題を出していましたが欠かさず、きちんと取り組んでいたようです。それで少しずつ、『本気でボクシングに向き合おうとしているのだな』と思えるようになりました。日本チャンピオンになり、世界ランキングに入った頃にようやく、ボクサーとして生きる覚悟を決めたようでした」

異質な経緯でプロボクサーになった拳四朗は、階級を超えて最強を選ぶPFP(パウンド・フォー・パウンド)でもランキング入りするまで成長した。しかし、「人に流されやすく、失敗もするが、天然で憎めない」という性格は、出会った頃とまったく同じーーと篠原は笑った。

■真冬の坂道ダッシュに映った拳四朗の優しさ

「ライトフライ級で世界チャンピオンになって2度目の防衛戦(2017年12月30日、ヒルベルト・ペドロサ戦)に挑もうとしていた時期でした。当時はいまのように一人暮らしではなくて、京都の自宅で家族と一緒に暮らしていました。三迫ジムで出稽古をしたり、関東圏での試合前のみ、東京のビジネスホテルで長期滞在していました。

30日の試合も迫っていた、ある日の午後でした。ホテルの近くにある公園脇にある道路で、坂道ダッシュを3分間で3本ずつ、合計12回というかなりきつい練習をしました。練習後、私は東京在住で拳四朗君を応援している方と、その場で待ち合わせをしていました。拳四朗君には『寒いし、汗も掻いているから、先にホテルに戻ってええよ、風邪ひくで』と話しました。

でも拳四朗君は、

『僕も待ちます』

と、相手が来るまで付き合ってくれました。結局1時間近くも、しんどいのに付き合ってくれたんです。

気を遣ってくれたのか、優しいのか、いろいろな意味を込めて、めちゃくちゃ感動しました。本当は、早く帰って部屋で寝たいですやん。それなのに、半袖シャツと短パンのまま、相手が来るまでずっとです。『優しい子やな』と思いました。私やったら『わかりました』と素直に答えて、すぐ部屋に戻って寝てますわ。そういう優しい所や気遣いが出来る所は、いまも変わりません」

篠原はトレーナーとしての客観的な視点を持ちながらも、「家族」に近いまなざしで拳四朗を見守っていた。

昨年1月23日、2対0という際どい内容で辛勝したWBA&WBC世界ライトフライ級タイトルマッチのカルロス・カニサレス(ベネズエラ)戦のあと、拳四朗の体を案じてこんな話をした。

「試合の後、『こんなんずっと続けたらあかん。ボコボコにしか、なれへんような試合しか出来へんのやったら、ボクシング、続けられなくなるんちゃうか』と話しました。ここ何試合か、根性で殴り合うような試合ばかり続いて、以前とは違って、顔もめちゃくちゃ腫らすようにもなりました。

お客さんは、そういう試合の方が盛り上がるかもしれないし、良いかもしれん。でも、それより、自分自身の体を何よりも大切にして欲しいんです。いまは大丈夫そうに思えても、これだけ多くの試合、まして世界という厳しい環境で試合をこなして来ていれば、引退したあとに大なり小なり、後遺症は出て来ます。現役引退してからのほうが、人生は長いですやんか、はっきり言うて。それが、めちゃくちゃ心配なんです」

アスリートではなく、ひとりの人間として人生を捉えた場合、身体を壊してまで戦い続けることは本当に良いことなのか。

篠原は、トレーナー、ストレングスコーチとして30年以上の経験を積んだいまもなお、その答えの出ない自問自答を抱えたまま、セコンドに付いていた。


阿久井戦――。

非公開の採点では、拳四朗は11回終了時点で、リード(1対2)を許していた。

仮に最終12回、ジャッジのうちふたりが「阿久井優勢」と見れば負け。3者とも「拳四朗優勢」と見たとしても、「規定により引き分け」という戦況。しかし......。

「これは、いけるかもわからへん」

篠原は最後のインターバル、拳四朗にアイシングをしつつ阿久井陣営の様子を見て、逆転勝利につながるかもしれない「ある変化」に気付いた。


■ユーリ阿久井政悟(あくい・せいご)*写真左 
1995年9月3日生まれの30歳。岡山県倉敷市出身。本名は阿久井政悟。父親と叔父も元プロボクサーという環境に育ち、中2から倉敷守安ジムで本格的にボクシングに取り組む。地元の環太平洋大学進学後の2014年4月にプロデビューし、翌年、全日本新人王獲得。2019年10月、日本フライ級王座獲得。2024年1月、アルテム・ダラキアン(ウクライナ)に判定勝利し、岡山県にあるジム所属として初の世界王者に。2025年3月13日、寺地拳四朗とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦では最終12回TKOで敗れる。通算戦績は25戦21勝(11KO)3敗1分け。

■寺地拳四朗(てらじ・けんしろう)*写真右 
1992年生1月6日まれの33歳。京都府出身。B.M.Bボクシングジム所属。2014年プロデビューし、2017年、10戦目でWBC世界ライトフライ級王座獲得。9度目の防衛戦で矢吹正道に敗れて王座陥落するも、翌2022年の再戦で王座奪還。同年11月には京口紘人に勝利してWBA王座獲得し2団体統一王者に。2025年3月13日、ユーリ阿久井政悟とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦でも勝利し、二階級で世界2団体統一王者に。2025年7月30日、リカルド・ラファエル・サンドバルに判定負けを喫して王座陥落。通算戦績は27戦 25勝 (16KO) 2敗。

取材・文・撮影/会津泰成

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