【WBA&WBC世界フライ級王座統一3.13決戦】 勝者と敗者、それぞれの「リ・スタート」(12回連載/最終回・後編)

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2025年09月27日 15:10  週プレNEWS

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試合翌日会見で再会した拳四朗(左)とユーリ阿久井(右)。阿久井は戦前から「試合が終われば恨みっこなし」と話していた


2025年3月13日、両国国技館――。ボクシング、WBA&WBC世界フライ級王座統一戦で阿久井に勝利した拳四朗は、米国の老舗ボクシングメディア、「リング」誌のPFPランキングで初のトップ10(9位)入り。さらに、井上尚弥がメインを務めるメガイベント、サウジアラビアが国を挙げて取り組むエンターテイメントの祭典、「リヤド・シーズン」への出場オファーも届くなど、キャリアの最高潮を迎えようとしていた。そんな拳四朗を待ち構えていたのは、"まさか"の出来事だった。

一方、拳四朗に敗れた阿久井は地元岡山に戻ると、わずか1週間でジムワークを再開した。しかし、再出発の道は必ずしも平坦ではなかった。拳四朗戦を前に抱えていた、誰にも明かせぬ苦悩と引退への迷い。そうしたなか、思いがけず渡された数枚のレジュメに込められた新たな仲間の思いが、阿久井の心に、ふたたび"蒼き炎"を灯した。

【写真】世界王座を失い、控室で泣き崩れた拳四朗

*  *  *

2025年4月、岡山・倉敷守安ジム――。

阿久井は自身の練習だけでなく、「第二のユーリ阿久井政悟」を目指す若い練習生たちの指導にも、精を出していた。

守安会長は、

「阿久井は、自分の練習の前には必ず、若い選手らにミットを構えて教えちょります」

と教えてくれた。阿久井はこの時点では、現役を続けるのかどうか明言していなかった。守安も、本人には何も尋ねることなく見守っていた。

「はいっ、次、ワンツー!」

「トレーナー阿久井」の指導は、自身の練習の合間に声をかける程度ではなかった。両手にパンチングミット、腰にはボディミット。代わる代わるリングに上がる若い練習生相手に、ポジションを変えながら駆け回る。つい最近まで世界チャンピオンであり、日本ボクシング史に残る名勝負を演じたばかりの男とは俄(にわか)に信じがたいほど、指導者としての"熱"がこもっていた。

同時に、それは未来の阿久井の姿を映しているようにも思えた。

阿久井は、間違いなく指導者としても一流になる。そして守安と同じように、この岡山の地で、地方ジム発で世界を目指す選手を育んで行く――そんな未来予想図が自然と浮かんだ。

■死闘を繰り広げた男が望んだ、" おっちゃん"とのマス・ボクシング

「こんにちは」

午後8時――。ミットを構える阿久井を取材している最中、ある練習生が顔を出した。取材者である自分と同じ50代過ぎの男性は、阿久井の叔父、「赤澤貴之」だった。

「こうして守安ジムに通い始めたのは、今年に入ってからです。『もう何十年ぶり』という感じです。わたしが現役時代は、ここから少し離れた場所にありました。新しくこの場所に移転してからは、年に1、2回、スパーリング大会が開かれた時に、(守安)会長の顔を覗きがてら立ち寄る程度でした」

赤澤は、1987年設立の倉敷守安ジムで、阿久井の父・一彦と同時期に指導を受けた、元プロボクサーだ。15歳、高校1年生で入門し、バンタム級で西日本新人王獲得。日本スーパーフライ級2位まで上り詰め、のちにWBA世界同級王者となる飯田覚士の持つ日本タイトルにも挑戦した。

阿久井がこの世に生を受けるきっかけを作ったのは、赤澤だった。

赤澤は、面倒見の良い性格でみなから慕われ、自身も兄のように親しかった一彦に、自分の姉を紹介した。ふたりは交際を経て夫婦となり、やがて誕生したのが「政悟」だった。

赤澤は、警備会社の社員として26年勤務しつつ、現在は個人ジムも運営しフィットネスでボクシングを指導している。1999年、元WBA世界ライトフライ級王者の山口圭司との試合を最後に、27歳で引退。以来、守安ジムで汗を流す機会はなかったが、甥の政悟が世界チャンピオンになった縁で足を運ぶ機会が増え、今年1月からは、一般練習生として古巣に復帰した。

「やっぱり、プロボクサーのいるジムは活気があるし、見ているとうずうずしてくるというかね。それで、『原点回帰で、また通わせていただけたらな』と思いましてね。(守安)会長に恩返しをしたい気持ちもありますし、ミットを構えたり、軽めのスパーリング程度ならば、若い子の相手もできるかな、と」

軽く準備体操をして体を温めた赤澤は、黒いサポーターを拳にはめてリングに上がった。軽やかにステップを踏み、時折、ウィービングを交えてシャドーを繰り返す。表情を変えず、無駄な言葉もなく淡々と拳を繰り出すその姿は、拳四朗戦で内なる闘志を秘めてリングに上がった政悟とも、どこか重なって見えた。

「甥っ子(政悟)は、同じボクサーとしては雲の上の存在です。"世界"は、わたしにはわからない領域なので、尊敬の気持ちしかありません。でも、ふとした瞬間、身内のような感覚に戻ったりもします。拳四朗選手との試合も、『政悟が負けて悔しい』というより、『無事にリングから下りてきてくれて良かった』という気持ちのほうが大きかったですね」


3月13日の試合当日は、仕事の都合で東京には行けず、倉敷の自宅でライブ配信を観戦して見守った。そんな赤澤に、東京から戻って来た阿久井は、こう話しかけてきたという。

「おっちゃん、ちょっとマス(・ボクシング)でもしようよ」と――。

「たまたまジムに顔を出した時、政悟も来ていましてね。メールでは試合後すぐに『お疲れさま』と送って、返信もありました。でも、やっぱり直接会うまでは心配でした。拳四朗選手に負けた直後はあんな状態でしたので、『大丈夫かな』と。会ってみたら、穏やかないつもの政悟でした。その時でした。たわいもない会話をしていた途中で、ふと、『おっちゃん、ちょっとマスでもしようよ』と、誘ってくれたんです」

可愛い甥っ子が無事に戻って来てくれたこと。そして、マス・ボクシングとはいえ、現役引退して25年経つ自分と拳を交わすことを申し出てくれたことに、赤澤は安堵と同時に、同じボクサーとして心から感謝した。

ふたりは他の練習生の邪魔にならないように、リングの脇にあるフロアで拳を交えた。

「本当に何年かぶりでした。プロになってからも何度かマスはしましたが、それでも久しぶりでした。『政悟、ありがとう』という気持ちで、年甲斐もなく高揚しました。政悟は軽く、"パパーン!"と音を立てるようにパンチを出す感じでしたが、わたしは必死、一生懸命。なにせ、世界チャンピオンですからね。相手にパンチを当てない約束をしてするマス・ボクシングですが、それでも時々、政悟のパンチがわたしに当たってしまい、『あっ、おっちゃん、ごめん』と謝られたりして、ふたりで笑い合いながらやりました」

拳を通して互いの気持ちを確かめ合えた、3分3ラウンドのマス・ボクシングーー。それは赤澤にとって一生忘れられない時間、大切な思い出となった。

■横浜BUNTAIで起きた、絶対王者の陥落劇

「And the NEW!」

判定結果を待つ静寂に包まれた試合会場――。

世界的なリングアナウンサー、ジミー・レノン・ジュニアが、語気を強めてそう告げた瞬間、挑戦者のサンドバルは、雄叫びをあげて跳び上がった。

「元世界王者」になった拳四朗は、淡々と両手を叩いて勝者を称えた。

2025年7月30日、神奈川・横浜BUNTAIで行われたボクシングのWBA&WBC世界フライ級タイトルマッチ。拳四朗は、WBC同級2位、WBA同級3位のリカルド・サンドバル(米国)相手に判定負け。それは、拳四朗本人はもちろん、誰もが予想だにしない、まさかの結末だった。


「採点は厳しいかな、とは思ったので『負けたかな』とは思いました。相手のほうが上手でした」

試合後の記者会見、拳四朗は淡々と答え、敗北を潔く受け入れた。

「足を使って間合いを変えたり、接近戦で圧力をかけたりと、取り得る策は講じました。でも、結果的に裏目に出てしまい、拳四朗自身に迷いを生じさせてしまいました」

加藤は冷静に試合を振り返り、拳四朗と同じように、参謀を任された自身の力不足を真摯に受け止めた。

スコアは、1人目のジャッジは「115対112」でサンドバル。2人目のジャッジは「114対113」で拳四朗。そして、3人目のジャッジは「117対110」でサンドバルを支持していた。拳四朗は5回、鮮やかなワンツーでダウンを奪うも、「スプリット・ディシジョン(2人がサンドバル指示で、1人が拳四朗指示)」で敗れた。

メディアの前では気丈に振る舞い、堂々と応答した拳四朗。しかし、記者会見場に向かう前の控室では、腫れ上がり塞がりかけた右目付近を氷で冷やしながら、

「なんで負けたんかな......」 

と呟き、後は言葉を発することはなかった。


伏兵と思われていたサンドバルにWBA、WBCの世界タイトルを同時に奪われた拳四朗は、内定していた「リヤド・シーズン」参戦も一旦白紙に。リング誌のPFPランキングも圏外転落が濃厚となるなど、一夜にしてあらゆる栄光を失った。

バムと同じメキシコ系アメリカ人、26歳のサンドバルのニックネームは、"El Nino(エル・ニーニョ/神の子)"。メキシコやラテンアメリカでは、若くて才能に溢れた選手に対して、「El Nino」という呼称が与えられたりする。日本では無名に近いサンドバルだが、じつはアメリカ国内では、その実力は早い段階で評価されていた。

若干17歳でプロデビューしたサンドバルは、拳四朗戦前の段階で、26歳ながらすでに28戦26勝(18KO)2敗という豊富なキャリアを誇っていた。しかも2敗のうち1敗は、デビュー間もない5戦目。もう1敗は、2022年7月16日、24歳の時、のちに阿久井が挑戦するアルテム・ダラキアンが保持していたWBA世界フライ級挑戦者決定戦で、現WBA世界スーパーフライ級暫定王者、デビッド・ヒメネス(コスタリカ)から喫したものだった。

サンドバルは、11戦無敗9KOと勢いに乗るヒメネス相手に、「マジョリティ・ディシジョン(2人がヒメネス指示。残る1人は引き分け」で惜敗したものの、将来性を見込まれ、2024年3月、オスカー・デ・ラ・ホーヤの率いる「ゴールデンボーイ・プロモーションズ」との複数年契約を勝ち取った。わずか4ヶ月後の7月には、元WBO世界ライトフライ級王者アンヘル・アコスタ(プエルトリコ)を10回KOで下し、WBC世界フライ級シルバー王座を獲得した。防衛戦も判定で難なくクリアし、そうしてプロ29戦目で掴んだ世界初挑戦の舞台が今回の、拳四朗との試合だった。

日本では無名でも、アメリカ国内では、あのデ・ラ・ホーヤも高く評価して期待する危険な相手――。

ただそれでも、毎回のように難敵と対戦し、相手が強ければ強いほど力を発揮して退けてきた拳四朗の勝利は揺るぎないと、誰もが考えていたに違いない。

ボクシングの怖さ、難しさーー。

それらを勝利することで学んできた拳四朗は、2021年9月22日の矢吹正道戦以来、およそ3年10ヶ月ぶりの敗北から学ぶことになった。 

世界王者になって以降、拳四朗は常々、「負けたら引退」と決めてボクシングを続けて来た。しかし、この日、記者会見で自身の進退について聞かれた際は、「いまは『何も考えられない』ですかね」と答えた。

矢吹相手にTKO負けした時は9回、相手の頭が右まぶた付近に直撃して大出血する不運もあり、プロ初黒星を喫した。しかし、今回のサンドバル戦は、5回にダウンを奪って見せ場は作ったものの、それ以外はほぼサンドバルに支配された。

「お疲れ様でした」

控室の荷物を片付けた拳四朗は、スタッフなど関係者に挨拶すると、結局、自身の進退について触れることなく会場を後にした。

■孤高のボクサーが手にした新たなチーム


倉敷守安ジムーー。

取材を終えたのち、阿久井、そして妻の夢と一緒に、JR倉敷駅近くの居酒屋で食事をすることになった。阿久井はそこで、思いがけない話を打ち明けた。

「拳四朗さんとの試合前から、勝っても負けても、『ボクシングは辞めようかな』と迷っていたんです」とーー。

阿久井は、言うか言うまいか少し躊躇(ちゅうちょ)しながらも、夢に「これ、話しても良いかな」と確認した上でそう打ち明けた。

「じつは、拳四朗さんとの試合前から、チームは解散することが決まっていました。もちろん、守安会長は変わらずですが、他のメンバーの方々は、本業の合間に時間を割いて、協力してくださっていたこともあり......。でも、さすがに世界戦が主な活動となると、とても片手間で続けられることでもないですよね。それで......」

阿久井は言葉を慎重に選びつつ、経緯を打ち明けた。

東京の大手ジムとは違い、地方にある小さなジムに所属して「世界」を戦うことは、本人だけでなく、スタッフの負担も並大抵ではない。普段の練習は、阿久井自身の努力や工夫で補うことは出来ても、いざ試合が決まれば、まわりのスタッフも含めて心をひとつにし、時間や労力、時には金銭面も含めて、あらゆることを犠牲にしなければできなかった。

まして阿久井は、単に「世界を目指す」というボクサーではなく、さらにその上、複数団体統一、あるいは2階級制覇などを目指す、「トップ・オブ・トップ」に属するボクサーだった。

東京にある大手ジムですら、かなりの負担と労力を注がなければならないような大仕事を、地方にある小さなジムが手弁当で続けることは、もはや限界に近い状態だったのかもしれない。

阿久井はそれを拳四朗戦前に、まわりの雰囲気から察した。チーム解散の経緯はすべてを打ち明けることはなかったが、元来他人に負担をかけることを嫌い、悩みを打ち明けたり、相談することは苦手な阿久井が「これ以上、自分のことでまわりに迷惑をかけるべきではない」と考え、心を悩ませたことは想像に容易かった。

阿久井はあの大一番、そんな精神状態で迎えた。にも関わらず、夢と交わした「うまくいかなかったりしても、『誰かのせいにするのは、絶対なし』ね」という約束を全うし、愚痴をこぼすことはもちろん、誰かに打ち明けることもなくリングへと向かい、そして戦い切ったのだ。

「でも......」

と、阿久井は話を続けた。

「母校の環太平洋大学(IPU)で取り組んだ肉体改造のトレーニングチームのメンバーが、試合後に慰労会を開いて下さったんです。引退するかどうか迷っていることは、誰にも打ち明けていませんでした。でも、そしたらいきなり、ある計画書のレジュメを渡されたんです。レジュメの表紙を見た時、『俺、まだボクシング、辞められねえな』と思ったんです」

IPUのスタッフから手渡されたレジュメの表紙には、IPUスポーツセンター長の署名入りで、「TEAM PONZ トータルサポート」とタイトルが付けられていた。それは、大学OBのトップアスリートであると同時に、郷土の誇りともいえる阿久井を引き続きサポートすることで、「自分たちも共に、ふたたび世界の頂きに立つ日を目指す」という、スタッフ陣の決意表明でもあった。阿久井本人が思っている以上に、あらゆるハンデを克服しながら「地方発・世界」で戦うその姿は、大勢の人たちに勇気や希望を届けているのだ。

俺、まだボクシング、辞められねえな――。

大好きなコーラを飲みながらそう話した阿久井は、なんとも言い難い笑顔を見せた。

岡山での取材から2ヶ月後の6月23日、阿久井家に待望の第三子が誕生した。同日、阿久井は、自身のX(旧Twitter)でそれを報告。「第参子、爆誕しました!初の男の子ですが2人のお姉ちゃんに囲まれて逞(たくま)しくなると思います」とコメントし、「とにかくゆめも、お疲れ様」と、大仕事を終えた妻を労った。

およそ2週間後の7月7日、阿久井はIPUでプロスポーツ選手を目指す学生およそ100人を前に講演した際、肉体改造のトレーニングチームの協力に感謝の気持ちを伝え、そして世界王座返り咲きに向けて「現役続行」を宣言した。現在は、自身のトレーニングサポートを受けると同時に、「IPUスポーツ科学センター助手」という立場も得て、新たな職場で働き始めた。

人生はこれで終わりじゃない――。

誰にも明かせぬ苦悩と引退への迷いを抱えていた孤高のボクサーは思いがけず、「ボクシングを続ける理由」を見つけることができた。

9月3日、30歳の誕生日を迎えた阿久井は、家族、友人そして新たなチームの同志に支えられながら、ボクサー人生の第二章を歩み始めた。


一方、サンドバル戦でまさかの敗北を喫した拳四朗――。

9月に入ってもなお進退は明らかにせず、ボクシングとは距離を置いた生活を続けていた。そんな拳四朗に対して、加藤は自ら連絡を取ることもなく帰りを待ち続けていた。そして、「チーム拳四朗」のサブトレーナー横井は、拳四朗の帰りを待ち続ける加藤を人知れず見守っていた。

サンドバル戦の翌日、著者のスマートフォンには、横井からこんなメールが届いていた。

昨日はお疲れ様でした。

サンドバルよりユーリの方が強いです。

拳四朗は知らず知らずのうちに「勝てるだろう」という気持ちが、強くなっていたのだと思います。

技術で負けたのならしょうがないですが、昨日は心で負けました。

でも、あいつは必ず立ち上がって更に強くなれます。

拳四朗は負けても這い上がる、かっこ良い姿を見せてくれた選手です。

やられてやり返した拳四朗は、連続防衛していた頃の何倍もかっこ良かったです。

自分も加藤も、負けてから這い上がる事の大切さ、尊さを知ってもらいたくて
トレーナーを続けていると言っても過言ではありません。

勝っている選手のトレーナーが注目されますが、負けた後に寄り添い、励まし、叱咤し、心身ともに強くできる。それが本当のトレーナー。

矢吹戦後に拳四朗を更に強い人間にさせた加藤は、だから素晴らしいトレーナーなんです。

負けたとしても強く進言し、導ける関係を作っておく事の方が、良いワンツー教えるより何倍も大切。

トレーナーは勝っても負けても関係なく、常に選手と共に歩む存在。選手とトレーナーを見守ってくれている三迫会長。みんなでチーム拳四朗なんです。

今後も、拳四朗と加藤に注目してください。

阿久井が30歳の誕生日を迎えた3日後の9月6日――。

拳四朗は、尊敬する先輩・長谷川穂積のラジオ番組に出演した際、「現役続行」を宣言。世界王者奪還に意欲を示した。そして、日本時間9月18日夜、一旦は白紙になった「リヤド・シーズン」参戦も正式発表された。

相手は一階級上、IBF世界スーパーフライ級王者、ウィリバルド・ガルシア・ペレス(メキシコ)。再起戦でいきなり世界挑戦、しかも「スーパーフライ級」という未知の領域でリングに立つことになった。

今月15日からは大阪にある篠原のパーソナルジムで、肉体改造に取り組み始めた。そして10月からはいよいよ、加藤や横井、そして三迫会長はじめ「チーム拳四朗」の仲間の待つ三迫ジムで、本格的に始動する。


負けても這い上がる――。

拳四朗も阿久井と同様に、新たな戦いに向けて「リ・スタート」を切った。


■ユーリ阿久井政悟(あくい・せいご)*写真左 
1995年9月3日生まれの30歳。岡山県倉敷市出身。本名は阿久井政悟。父親と叔父も元プロボクサーという環境に育ち、中2から倉敷守安ジムで本格的にボクシングに取り組む。地元の環太平洋大学進学後の2014年4月にプロデビューし、翌年、全日本新人王獲得。2019年10月、日本フライ級王座獲得。2024年1月、アルテム・ダラキアン(ウクライナ)に判定勝利し、岡山県にあるジム所属として初の世界王者に。2025年3月13日、寺地拳四朗とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦では最終12回TKOで敗れる。通算戦績は25戦21勝(11KO)3敗1分け。

■寺地拳四朗(てらじ・けんしろう)*写真右 
1992年生1月6日まれの33歳。京都府出身。B.M.Bボクシングジム所属。2014年プロデビューし、2017年、10戦目でWBC世界ライトフライ級王座獲得。9度目の防衛戦で矢吹正道に敗れて王座陥落するも、翌2022年の再戦で王座奪還。同年11月には京口紘人に勝利してWBA王座獲得し2団体統一王者に。2025年3月13日、ユーリ阿久井政悟とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦でも勝利し、二階級で世界2団体統一王者に。2025年7月30日、リカルド・ラファエル・サンドバルに判定負けを喫して王座陥落。通算戦績は27戦 25勝 (16KO) 2敗。

取材・文・撮影/会津泰成

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