元チームメートが語る野茂英雄が切り拓いた日本人メジャーリーガーの道と1995年地区優勝

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2025年09月29日 07:10  webスポルティーバ

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前編:野茂英雄の元チームメートが語るドジャースの1995年と2025年

4年連続のナ・リーグ西地区制覇を果たしたロサンゼルス・ドジャース。山本由伸はケガ人が続出する投手陣のなか、1年間ローテーションを守り、エースとしての働きを見せ、地区優勝を決定した試合でも先発としてチームの勝利に貢献した。その姿は、今から30年前、ドジャースが地区優勝を決めた試合で先発した野茂英雄から続く、日本人メジャーリーガーの挑戦の系譜のように捉えることもできる。

野茂のチームメートであり、現在はドジャースの解説者を務めるエリック・キャロスは、日本人メジャーリーガーを長きにわたり見てきた人物。彼の目に、現在の山本や大谷翔平はどのように映っているのだろうか。

【エースとしての築いた山本由伸の2年目】

 シャンパンの泡が宙を舞い、歓声と笑い声がクラブハウスを満たした。

 9月25日、敵地フェニックスで決まった4年連続の地区優勝。大谷翔平がシャンパンのボトルのノズルをひねると、飛沫が仲間の背中を打ち、瞬く間に白い霧となって広がった。真っ先に標的としたのはこの日も堂々たるピッチングを披露した山本由伸だった。

 大谷は声を弾ませて語った。

「由伸はひとりだけ、1年間ローテーションを守ってフルシーズン投げてくれた。チームのエースだと思っています。期待が高いなかで今日もいいピッチングを見せてくれたのは、ポストシーズンに臨むにあたってチームとしてもすごく喜ばしいことです」

 舞台はアリゾナ・ダイヤモンドバックスの本拠地。幾度となくチームを救ってきた右腕は、この日も大一番で揺るがなかった。6回94球、4安打7奪三振、無失点。力強さと冷静さを兼ね備えた投球で、日本人投手7人目となるシーズン200奪三振も達成した。フィールドでは優勝記念Tシャツに袖を通し、仲間と固く抱き合う。そして舞台をクラブハウスに移せば、ロバーツ監督の「おめでとう!」の号令とともに、シャンパンの嵐に笑顔で身を委ねた。

 山本は祝宴のなかで、試合を振り返った。

「落ち着いて試合に入れたと思いますし、点差が離れたあとも集中して投げられたので、いい投球だったと思います」。日本人投手7人目となるシーズン200奪三振を達成したことについては、「どの球種も安定して投げられるようになった。相手打者のことも研究して、自分の投球ができたことも良かったです」と言う。

 今季は30試合に先発し、173回2/3を投げて12勝8敗、防御率2.49。だが本人が強調したのは数字そのものではなく、その裏にある積み重ねだった。

「1年を通していいパフォーマンスができたのが一番。防御率や三振数など、いろんな結果につながったのでよかったと思います」。そして記者から「去年と比べて、勝利の美酒の味は違うか」と問われると、27歳の表情に一気に笑みが広がった。「やっぱり働けた分、最高ですね」。汗と泡に包まれたクラブハウスで、その笑顔は誰よりも誇らしげだった。

【野茂が勝利投手となった1995年の地区優勝決定試合】

 今から30年前。同じドジャースのユニフォームを着て、地区優勝がかかった試合で勝ち投手となったのが野茂英雄だった。当時は、山本と同じ27歳。9月30日、敵地サンディエゴでのパドレス戦に先発すると、美しいトルネード投法から力強く腕を振り続けた。直球は切れ味鋭く、伝家の宝刀フォークボールでも次々に空振りを奪う。結果は8回117球を投げ、6安打11奪三振、2失点(自責1)。チームに7対2の勝利をもたらした。試合後、トミー・ラソーダ監督は「野茂を生み、育ててくれた彼の両親に感謝したい。そして野茂を送り出してくれた日本にも感謝したい。今晩はすばらしかった」と称賛を惜しまなかった。

 ドジャースはその年、シーズン終盤までコロラド・ロッキーズと激しく優勝を争い、この日も1ゲーム差という状況だったが、野茂の力投によって、世界一に輝いた1988年以来となる7年ぶりのポストシーズン進出を決めたのである。

 印象的だったのは、当時のゼネラルマネジャー、フレッド・クレアの言葉だ。彼は野茂の挑戦を「パイオニアとしての忍耐強さ」として、特に称えた。30年前、日本人選手がメジャーに移籍する明確な道筋は存在せず、日米の野球の違いについても、言葉の壁についても、助言をくれる人はほとんどいなかった。そんななかで海を渡った野茂の覚悟は、ほかの誰にも真似できるものではなかった。クレアGMは、こう語っている。

「彼が経験したこと、やらなければならなかったすべてのことを考えてみてください。何度も苦難を乗り越えてきたのです。野茂英雄であれ、カーク・ギブソン、トレーシー・ウッドソン、あるいはフランクリン・スタブスであれ、同じです。困難に耐えたのです」

 1988年のワールドシリーズ第1戦で、ケガを押して劇的なサヨナラ本塁打を放ったギブソン。そして、ウッドソンやスタブスもまた、地道な努力と忍耐で世界一に貢献した選手たちだった。その系譜に連なるのが野茂だと言うのだ。華やかなスターである以前に、想像を絶する苦労と逆境を耐え抜いた真のパイオニアだった。

 メジャー1年目の野茂は、特に6月に絶好調を迎え、オールスターゲームでも先発を任された。しかし8月、9月は調子を落とし、「球速が落ちているのはケガのせいではないか」と不安視される場面もあった。

 だが、大一番のマウンドで彼は見事に甦った。9回の攻防ではダグアウトで仲間と並んで試合を見守り、最後の打者が二飛に倒れると、真っ先にフィールドへ駆け出した。歓喜の輪に飛び込み、抱擁を繰り返す。そしてクラブハウスではシャンパンファイトに酔いしれた。試合後、野茂は「なんとか自分らしいピッチングをと、それだけを考えていたので、それがよかったのかもしれないです」と静かに振り返った。

 会見の終盤には、ちょっとしたサプライズもあった。同僚であり、韓国球界にとってのパイオニアだった朴賛浩が背後から近づき、生クリームをたっぷり載せた紙皿を野茂の顔に押しつけたのだ。顔一面を真っ白にしながら、「本当にうれしいです」と安堵の表情を浮かべた姿は、今も忘れがたいシーンとして刻まれている。

 その1995年のチームで、キャッチャーのマイク・ピアザと並び野手陣を引っ張っていたのが、一塁手のエリック・キャロスだった。当時27歳。32本塁打、105打点を記録し、ナ・リーグMVP投票でも5位に入る活躍を見せた。と同時に、パイオニアとして挑戦を続けていた野茂を、間近で見てきたチームメートでもある。現在はドジャースの実況解説者を務める57歳のキャロスに、当時を振り返ってもらった。

【「ヒデオの挑戦は、個人的なもの以上の意味を持っていた」】

――イチローが殿堂入りセレモニーで「自分がメジャーで成功できたのは野茂さんのおかげだ」と感謝を述べました。あなたは野茂のチームメートとして、彼の先駆的な挑戦とその影響をどのように見ていますか?

「ヒデオがいなければ、イチローや松井秀喜、そして大谷翔平の野球人生も変わっていたかもしれません。ヒデオが1995年にドジャースに来たとき、私たちアメリカの野球人は何を期待していいのかわかりませんでした。当時はまだ『日本人選手はメジャーで成功できない』という考えが根強くありましたから。最後に日本からやってきたのは、1960年代の村上雅則でしたしね」

――彼の挑戦について、日本球界関係者から冷ややかな見方をされていたことは知っていましたか。

「ある意味"反逆児"で、彼を応援して『頑張れ』と送り出してくれたわけではなかったことは知っていました。厳しい状況のなかで渡米し、成功を勝ち取らなければならなかった。もし成功すれば後に続く選手たちに道を開くことになるが、うまくいかなければ逆にそのチャンスを奪うことになる。つまり彼の挑戦は、単なる個人的なもの以上の意味を持っていたのです。一方で、その後にやって来たイチローや松井は、より野球に専念できた。なぜなら扉はすでに開かれていたからです。ヒデオは、その扉をこじ開けなければならなかった」

――1995年の春季キャンプは、ストライキの影響で変則的でした。野茂がマイナー契約で参加した際、まだメジャーの選手たちはいませんでした。ベロビーチ(フロリダ州にあるドジャースのキャンプ地)で初めて会ったとき、どんな第一印象を持ちましたか?

「実は1992年シーズン終了後、オールスターチームの一員として日本に遠征したとき、ヒデオと対戦した経験があった。そのときの記憶が強く残っていました。覚えていた理由は、あの独特な"トルネード投法"です。あんなフォームは見たことがなかった。だからドジャースが野茂と契約したと聞いたとき、『あの変わったフォームの投手じゃないか?』とすぐに思い出しました。そして実際にキャンプで見て、『ああ、やっぱりあの野茂だ』と思いました」

つづく

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