【箱根駅伝 名ランナー列伝】渡辺康幸(早稲田大学):いまもなお数多の人々の記憶に鮮明に生き続ける比類なき「超大学級」のスケール

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2025年10月16日 07:10  webスポルティーバ

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箱根路を沸かせた韋駄天たちの足跡
連載01:渡辺康幸(早大/1993〜96年)

いまや正月の風物詩とも言える国民的行事となった東京箱根間往復大学駅伝競走(通称・箱根駅伝)。往路107.5km、復路109.6kmの総距離 217.1kmを各校10人のランナーがつなぐ襷リレーは、走者の数だけさまざまドラマを生み出す。

すでに100回を超える歴史のなか、時代を超えて生き続けるランナーたちに焦点を当てる今連載。第1回は、1990年代に圧倒的なスケールの走りを見せた渡辺康幸(早大)を紹介する。

【高校2年秋から続いた"無敗伝説"】

 何から書けばいいのか。筆者が大学1年時に4年生だった渡辺康幸。憧れの目で追いかけていた存在は、とにかく凄まじかった。ひと言で表現するとアニメに出てくるヒーローそのものだったのだ。本人も「完璧な4年間だった」と表現した臙脂(えんじ)の時代。その圧倒的な戦績を振り返りたい。

 渡辺の話をするなら市船橋高校(千葉)時代のことも欠かせない。なぜなら彼の"無敗伝説(同学年以下の日本人に負けなし)"は高校2年の秋から始まるからだ。3年時(1991年)はインターハイで1500m、5000mの2冠を達成。国体(現・国スポ)少年A10000mは29分11秒59の大会新で連覇を飾ると、12月には10000mで28分35秒8の高校最高記録(当時)を樹立する。全国高校駅伝は1区を29分34秒で突っ走り、2年連続の区間賞を獲得した。そして名門・早稲田大学に進学する。

「早大に進学した理由は、コーチに瀬古利彦さん、2学年上に武井隆次さん、櫛部静二さん(現・城西大監督)、花田勝彦さん(現・早大駅伝監督)がいらっしゃったのが大きかった。レベルの高いチームで競技を続けたいと思っていたからです。トラックで世界を目指すことが一番で、その次に箱根駅伝があるという感覚でした」

 渡辺の言葉に当時の"熱い思い"が詰まっている。世界と戦うには普段から強い先輩たちと競い合い、留学生が相手でも負けるわけにはいかない。そんな気持ちだったのだ。

 初めての箱根駅伝(1993年/69回)は先輩たちを押しのけて、花の2区に抜擢される。最初にタスキを受け取ると、悠々とトップを独走。「きつかったですけど、うまくまとめられた感じで、狙いどおりでした」と1時間08分48秒の区間2位と好走した。区間賞は山梨学院大学のステファン・マヤカで1時間08分26秒だった。スーパールーキーの活躍もあり、早大は8年ぶりの総合優勝に輝いた。

 大学2年時(1993年度)は6月の日本選手権10000mで4位(28分31秒57)に入ると、その後は欧州遠征を敢行。50日間ほど海外で過ごし、バッファロー・ユニバーシアード(現・ワールドユニバーシティゲームス)10000mで銀メダル(28分17秒26)を獲得した。

 箱根駅伝(1994年/70回)は「チーム戦略」で1区に起用された。瀬古コーチの「1分半離せ」という"むちゃぶり"に海外で磨いたスピードで応じる。当時としては異次元ともいる20kmを57分台で通過。先輩の櫛部が前年にマークした記録を56秒も更新する1時間01分13秒の区間記録(当時)を打ち立てた。しかし、山梨学大・井幡政等に18kmまで食らいつかれ、ライバル校を引き離すことができない。2区の花田が、1時間07分34秒の区間タイ記録で走った山梨学大・マヤカに抜かれて、チームは連覇を逃した。

「1区はプレッシャーなので、この年が一番しんどかったかなと思います。でも2区の区間記録は翌年、破れるかなというイメージはありました」

【箱根2区区間記録は更新されても今も残る大記録とは】

 3年時(1994年度)は関東インカレの10000mと5000mを大会新(28分18秒16、13分51秒89)で優勝。7月はローザンヌ国際10000mで4位(28分07秒94)、ロンドングランプリ5000mで11位(13分26秒53)に入った。欧州遠征ではハイレ・ゲブレセラシエ(エチオピア)とも走っている。のちに5000m、10000m、ハーフマラソン、マラソンで世界記録を塗り替えた「皇帝」だ。

「ゲブレセラシエとは大学1年時の世界ジュニア選手権10000m(ゲブレセラシエが1位、渡辺が3位)でも走っているんですけど、すべてが違いましたね。アフリカ勢は僕らが箱根駅伝をやっている間にトラックでどんどん記録を伸ばしていく。自分が世界で通用できるかといったらまだまだだと感じました」

 欧州遠征で刺激を受けた渡辺は夏合宿でも走り込み、全日本大学駅伝は8区で区間賞。雨中のレースで山梨学大・中村祐二を突き放している。そして迎えた箱根駅伝(1995年/71回)は2年ぶりに花の2区に登場して、7人抜きを披露。従来の記録を46秒も塗り替える1時間06分48秒の区間新記録を打ち立てた。

「5kmを14分15秒ぐらいで入ったらめちゃくちゃ楽だったんですよ。自分のなかで速めのジョグをしている感覚でいけて、10kmは28分30秒ぐらい。15kmの権太坂を43分一ケタ(秒台)で通過したので、6分台は見えるかなという感じでした。ただ前にいたマヤカ君の背中は最後まで見えなかったですね。彼と競り合う展開になれば、もっと記録を出せたんじゃないでしょうか」

 最終学年を迎えた1995年度シーズンは6月の日本選手権10000mで27分55秒81の3位に食い込み、8月のイェーテボリ世界陸上の代表をつかむ。予選を27分48分55の6着で通過すると、2日後の決勝でも27分53秒82(12位)をマーク。高速スパイクがない時代に3レース連続で10000m27分台を記録した。さらに福岡ユニバーシアードの10000mで金メダルを獲得している。

 最後の箱根駅伝(1996年/72回)は3度目の2区に出走した。「主将として自分の記録を更新しなきゃという気持ちもあって、ちょっと気負いすぎましたね」と渡辺。トップと37秒差で走り出すと、8人を抜き去り、2km付近で先頭に立ったのだ。終盤は苦しみながらも、1時間06分54秒で走破。区間2位に1分35秒もの大差をつけるダントツの区間賞だった。

「だいぶ残るんじゃないかなと思っていた」という3年時に樹立した2区の区間記録(1時間06分48秒)だったが、1999年(75回)大会で順天堂大学の三代直樹が2秒更新した。その後、厚底シューズが普及して"新時代"に突入。2020年(96回)大会の東洋大・相澤晃(1時間05分57秒)や2025年(101回)大会の創価大・吉田響(1時間05分43秒)など、多くの選手が渡辺の記録を塗り替えていった。

 だが、いまだに残っている渡辺の大記録が伊勢路にある。4連覇のゴールに飛び込んだ1995年の全日本大学駅伝8区(19.7km)で刻んだ56分59秒だ。このタイムに届いた日本人選手は29年経っても現れていない。

【箱根駅伝成績】
1993年(1年)2区2位・1時間08分48秒
1994年(2年)1区1位・1時間01分13秒*区間新
1995年(3年)2区1位・1時間06分48秒*区間新
1996年(4年)2区1位・1時間06分54秒
*区間新記録は当時

Profile
わたなべ・やすゆき/1973年6月8日生まれ、千葉県出身。市船橋高(千葉)―早稲田大―エスビー食品。大学卒業1年目には1996年アトランタ五輪10000m代表に選出。現役引退後は2004年に早大駅伝監督に就任し、2010年度には史上3校目となる大学駅伝3冠を達成した。2015年4月から住友電工監督を務め、現在に至る。

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