摂食障害を乗り越え24歳で初五輪 "遅咲きのスケーター"鈴木明子がバンクーバーで流した涙の理由

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2025年10月20日 10:00  webスポルティーバ

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連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第7回 鈴木明子 前編(全2回)

 2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会〜2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。

 第7回は、2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会と五輪2大会連続出場を果たした鈴木明子の軌跡を振り返る。前編は、摂食障害を乗り越えて初の五輪出場を決めるまでの道のりについて。

* * *

【次世代のホープがぶつかった壁】

 2度の五輪と4度の世界選手権出場という実績を残した鈴木明子。彼女がシニアの国際舞台で結果を出し始めたのは、23歳になった2008−2009シーズンからだった。そんな遅咲きの競技人生には理由があったーー。

 中学1年だった1997年、第1回全日本ノービス選手権Aで3位になると、翌1998年は全日本ジュニア選手権で3位に入り、2000年は同大会で2位。ジュニアGPシリーズでは2001−2002シーズンに日本大会で優勝してジュニアGPファイナルに進出すると、3位となり表彰台に上がる。全日本選手権も前年に続く4位で四大陸選手権にも出場と、次世代を担う選手として期待されていた。

 だが、2003年に大学入学とともに仙台へ拠点を移すと、環境の変化で摂食障害となりシーズンを全休。2004−2005シーズンに復帰したものの、全日本選手権では10位台と足踏みが続いた。

 それでも2007−2008シーズンには国際大会で2勝し、全日本は5位と復活の気配を見せ、翌2008−2009は、フィンランディア杯で優勝。GPシリーズ初出場となったNHK杯では、2位になる。1位は浅田真央で3位は中野友加里、さらに男子とともに初の日本勢表彰台独占を果たした。

 さらにその年の全日本は4位になると、7年ぶりの出場となった四大陸選手権は8位と日本女子の主力としての足固めをした。

【激戦の末、勝ち獲った初の五輪代表】

 翌季は2010年バンクーバー五輪シーズン。初めて意識する代表争いだったが、鈴木には苦しい時期を経験してきたからこその冷静さがあった。GPシリーズ初戦の中国大会ではショートプログラム(SP)4位からフリーで逆転し、自己ベストの176.66点にしてGPシリーズ初優勝。2戦目のスケートカナダは5位にとどまったが、ポイントランキング6位で初のGPファイナル進出を決めた。

 そのGPファイナルは、SPでは2本目の3回転ループが回転不足となり5位と出遅れたが、焦らなかった。

 鈴木は、「ループは跳び急いでしまって回転不足になり、降りた瞬間はやばいと思いましたが、あとは自分らしく落ち着いて滑れました。練習してきたことをしっかり出せたので満足しているし、お客さんに笑顔を見せられたのはよかったです」と冷静に振り返った。

 その安定したメンタルが、フリーの結果につながる。3回転ルッツがエッジ不明確でGOE(出来栄え点)で減点されたが、それ以外は着実に滑りきってフリー3位。合計174.00点で、キム・ヨナと安藤美姫に次ぐ総合3位になった。

「(5位の)スケートカナダではすごく落ち込みましたが、次につながる階段だとプラスに考えたのがよかった。緊張はしていましたが、練習はしっかりやってきたので、それを信じて気持ちを強く持って滑ることができた。GPファイナルに出られることは自分でもビックリしたし、うれしかったですが、こうやってメダリストとして肩を並べられたのは幸せです」

 フリーの演技構成点は5項目とも6点台にとどまったが、7〜8点台の評価をするジャッジも複数いたことは、さらなる可能性を感じさせた。

 GPファイナルで2位になった安藤と男子では織田信成がバンクーバー五輪代表に内定し、男女とも残り2枠を争う決戦になった全日本選手権。前季から一躍日本のトップに加わり、このシーズンでもGPファイナル3位で優位に立って臨むだけに気負ってもおかしくない状況だが、鈴木からは冷静な雰囲気が伝わってきた。

「朝の練習は少し硬くなって思うように体が動かず、力みで空回りしていて不安もありましたが、一度ホテルに帰って気持ちを切り替えてきました」

 そう話して臨んだSPは、キレのある動きの滑りでノーミス。目標にしていた60点超えを大きく上回る67.84点を出した。

「五輪が頭をよぎりましたが、その前に自分のやりたい演技、見せたい演技に集中しました。今季はGPシリーズに3試合出て学ぶことも多く、自分がどうしたらいい演技をできるかが少しずつわかってきたことが力になりました」

 その後、中野と安藤が68点台を出したためSP4位発進となったが、暫定トップの浅田も含む4人が1点強の差のなかに並ぶ競り合いとなった。

 2日後のフリーは、前に滑ったSP上位3人はトリプルアクセルを跳んだ浅田が合計204.62点で暫定トップに立ち、中野は195.73点で、安藤は185.44点。鈴木の自己ベストを大きく上回る得点を出していた。

 そのなかで鈴木は落ち着いて、3連続ジャンプと3回転トーループ+ダブルアクセルを確実に決める滑り出し。しかし、3回転ループを跳んだあとのつなぎで転倒するアクシデント。それでも、鈴木は「転んだ瞬間は笑ってしまい、スピンをしている時に恥ずかしいなと思ったけど、その後のスパイラルの時に気持ちを切り替えられました」と集中し直す。

「最後は歓声がすごくうれしくてノリノリでした。終わった瞬間には、やってきたことがきちんとできたんだという気持ちが込み上げてきました」と納得する滑りにした。

 結果は合計で中野をわずか0.17点上回る195.90点で初表彰台の2位。GPファイナル3位の結果も評価され、鈴木はバンクーバー五輪代表に選ばれた。

【大舞台の演技後に流した涙の理由】

 五輪前哨戦となった2010年1月の四大陸選手権で、浅田に次ぐ2位で初表彰台。勢いをつけて臨んだ24歳での初の五輪だった。海外メディアも摂食障害を克服して出場した選手だと注目度は高かった。

 SPは、優勝候補の浅田とキム・ヨナ(韓国)のあとの滑走。浅田とキムがそれぞれ73.78点、78.50点の高得点を連発し、会場の興奮度も高まったなかでの鈴木の演技だった。

 最初の3回転フリップは手をつく着氷となって連続ジャンプにできなかったが、「冷静にできた」と次の3回転ループに2回転トーループをつけてリカバリーをして滑りきった。

 鈴木は、「フリップの失敗だけではなく、全体的に硬さが出てしまったのでもったいないなと思いました」と演技を振り返った。得点は61.02点で11位発進。「とりあえず自分のシーズンベストは出せたので」とほほ笑んだ。

 そして、フリー。「6分間練習で思うようにいかなくて気持ちが弱くなりそうだったけど、今まで練習してきた時間を信じようと決めて氷の上に上がりました」と言う鈴木は、丁寧な滑りで最初の3連続ジャンプと連続ジャンプを決めて流れに乗ると、スピンとスパイラルはすべてレベル4にする演技。

 後半の3回転フリップが2回転になり、3回転サルコウも回転不足でわずかに減点されたが流れを途絶えさせず、終盤のステップは五輪の舞台に立てた幸福感を体中から溢れさせるように生き生きと滑った。

 演技終了後は、涙。その理由を鈴木は、「この舞台で『ウエストサイド・ストーリー』を滑れるのを本当に楽しみにしていたし、お客さんの歓声も含めて幸せだなと感じる時間でした。でも、終わった瞬間は演技前の不安から解き放たれたという気持ちと、現実に戻ったというか......。演じている時の自分は(登場人物の)マリアだけど、終わった瞬間に鈴木明子に戻って感情が吹き出てきてしまいました」と説明する。

 フリーは7位で、合計は大会前からの目標だった180点台に乗る公認自己ベストの181.44点とし、総合8位まで順位を上げる結果にした。

「五輪という舞台でショートもフリーも自分の目標にしていた点数が取れたのでうれしかったけど、コーチからは『全部できたら190点を目指せるぞ』と言われていたので。目標を達成したうれしさとともに、『次はそこにチャレンジしていきたい』という気持ちが出てきました」

後編につづく

<プロフィール>
鈴木明子 すずき・あきこ/1985年、愛知県豊橋市生まれ。6歳からスケートを始め、18歳の時に摂食障害を患うも復活を遂げ、2010年バンクーバー五輪8位入賞。2012年世界選手権3位、2013年全日本選手権優勝など数々の好成績を残す。2014年ソチ五輪に出場し、2大会連続8位入賞。現在は、プロフィギュアスケーターとしてアイスショーに出演し、振付師としても活躍する。

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