「一度も仕返しをしなかったね」美智子さまが耐えられた“姑”からの仕打ちの日々…上皇さまがかけた「ねぎらいのお言葉」

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2025年10月21日 06:00  web女性自身

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「10月20日に、美智子さまは91歳のお誕生日を迎えられました。お誕生日用の写真は例年、お庭などで撮影されていましたが、今年のお写真は仙洞御所内でのものです。上皇さまのご体調に配慮されてのことかもしれません。



10月9日には宮内庁ホームページで『香淳皇后実録』が公開されたばかりですから、香淳皇后の思い出話もされているのではないでしょうか」



そう語るのは皇室担当記者。



’00年に崩御した昭和天皇の后・香淳皇后。歴代皇后では最長寿の97年間におよぶ生涯の記録は3800ページに及ぶ。



近現代の皇室史に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう語る。



「ただ一人の伴侶として、そしていちばんの理解者として、昭和天皇を公私にわたり支えていたことが伝わってきます。太平洋戦争中には、“銃後を守る女性”のリーダーとして気丈に振る舞い、戦後は、国民とともに国土の再建に尽力する昭和天皇に寄り添った波乱に満ちた生涯でした」



ただ、この長大な実録には“ふれられなかった歴史”もある。



「美智子さまとの“嫁姑関係”です。久邇宮家出身で、生まれながらの皇族だった香淳皇后は、一般庶民出身の美智子さまのお輿入れに反対していたのです」(前出・皇室担当記者)



昭和天皇の侍従長の著書である『入江相政日記』には、香淳皇后が義妹たちに不満をもらしていたという記述がある。



《東宮様(上皇さま)の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后さまが勢津君様(秩父宮妃)と喜久君様(高松宮妃)を招んでお訴へになつた由》(’58年10月11日付)



だが『香淳皇后実録』には、この発言は記載されていない。



「宮内庁は実録の編纂にあたっては、“確実な資料に基づき、客観的事実を記述する”という方針をとったそうです。



『入江相政日記』の内容については、“他人からの伝聞が記載され、皇后の発言かどうかが確定できなかった”そうですが、宮内庁としては、宮中の嫁姑の相克を赤裸々に記録に残してしまうことは、はばかられたのかもしれません」(前出・皇室担当記者)



香淳皇后は美智子さまのお妃教育の場所やご成婚パレードの馬の頭数などについても、不満を漏らしていたという。





■美智子さまの人気で存在感が薄れて



『入江相政日記』には、次のような記述が――。



《美智子さんの教育に呉竹寮(昭和天皇の皇女用の住居)を使ふことを昨日お上(昭和天皇)はいゝとおつしやつたのに皇后さまはいけないとおつしやつた由。まだモヤモヤがあるらしい》(’58年12月9日付)



《皇后さまが今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だった、憤慨だとかおつしやつたとの事》(’59年3月12日付)



そうした香淳皇后の不満について、小田部さんはこう話す。



「かつての皇族や華族のなかには、皇太子妃は皇族・華族出身の女性たちから選ばれるべきだという考えが捨てきれず、香淳皇后の周囲には、不平を訴える者たちも多かったのでしょう。



『実録』には、香淳皇后の美智子さまへの否定的な言葉は記載されていません。しかし美智子さまがお世継ぎの天皇陛下や、秋篠宮さまを出産された後も、香淳皇后の姿勢はあまり変わらなかったようです。秋篠宮さまご誕生後の’67年、堪りかねたのか美智子さまは、入江侍従長に、“皇后さまは、平民出身ということ以外に、自分に何かお気にいらないことがあるのか”と、お尋ねになったそうです」



香淳皇后は、美智子さまの人気ぶりに複雑な思いも抱いていたようだ。小田部さんが続ける。



「上皇ご夫妻の母乳での養育や親子同居などは“新しい皇室のスタイル”として脚光を浴びました。しかしこれらのことは昭和天皇と香淳皇后もすでに試みていたのです。人気が美智子さまに集まりすぎていたことに、香淳皇后の哀しみがあったのかもしれません」



だがそうした哀しみも、時を経て次第に薄れていったようだ。



「70代になり、香淳皇后に認知症とみられる症状が現れ始めたのです。72歳のころ、昭和天皇と米国を初めて訪れた際には、『ここは外国の街みたいね』と、お付きの女官に話しかけていたと聞きました」(宮内庁関係者)



衰えていく姑に対して、美智子さまはどのような思いを抱かれていたのだろうか。’80年、美智子さまは46歳のお誕生日のために、こんなお言葉もつづられた。



《人は誰でも他人が理解したり、手助けしたりできない部分を持っているので、それを忘れずにそうした部分を忘れないこと、ただしそうした姿をお互いに認めあいながら、懐かしみあい、励ましあっていくことができればと思います》



昭和天皇が崩御した後、上皇ご夫妻は毎週末に香淳皇后にお会いになり、それに加えて美智子さまは週に一度、水曜日にお見舞いされていたという。



美智子さまと長年の交流があるメディアプロデューサーの渡邊満子さんはこう語る。



「美智子さまは吹上御所の香淳皇后のもとに行かれて、ハンドケアマッサージをされていたのです。英国赤十字社に勤めていた日本人女性から教わったそうで、お相手の手をぬるめのお湯につけて、さするというものです。クリームも塗ってさしあげていたそうです。とても気持ちがよいマッサージですし、認知機能への刺激にもなったと思います。



香淳皇后の崩御後、上皇さまがあるとき、美智子さまに、香淳皇后と旧来のお妃さま方からのことについて少し冗談ぽく、こうお話しになったそうです。



『いろいろ仕打ちを受けたけど、一度も仕返しをしなかったね』と……。美智子さまがすべてを乗り越えられたからこそ、そのようなお言葉をおっしゃったのだと思いますが、そうしたお二方の関係は本当に素晴らしいと思います」



美智子さまは、上皇さまのお言葉に、温かなねぎらいをお感じになったに違いない。そんな上皇さまのおかげで、美智子さまは“嫁姑の相克”を思い出に変えることができたのだろうか。

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