
今年3月、大地震に見舞われたミャンマー。内戦が続くミャンマーでは、軍による空爆が被災地にも続けられています。日本ではあまり報じられない現地の実態です。
大地震で6万以上の建物が被災 ミャンマーの今2025年3月、ミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生した。
震源に近いミャンマー第2の都市・マンダレー。地震で大きな被害を受けたこの町に7月、「報道特集」のカメラが入った。
記者
「多くの犠牲者が出たマンションの倒壊現場です。がれきの山が道路をふさいでいます。ここではまだ行方が分かっていない人の捜索活動が続いているということで、現場の近くには行方が分かっていない人の写真などもあります」
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地震前、11階建てのマンションが4棟建っていたが、うち3棟は完全に倒壊してしまった。犠牲者の多くは外国人で、住人の日本人1人も亡くなったとみられている。
ミャンマーの軍事政権によると、この地震で3800人以上が死亡、6万以上の建物が被災したという。
取材中には、マンダレーを支配下に置くミャンマー軍の幹部が警護の兵士らを引き連れて、捜索の視察に来ていた。
4年半前の軍事クーデターによって民主体制が失われたミャンマーでは、自由な取材活動が制限されていて、外国人を含む多くの記者が軍に拘束されている。
軍事政権下では、地震後の復旧作業にも影響が出ていた。
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建物の所有者
「倒壊した建物をすぐに解体することはできないんです。当局の許可を得るために、書類や写真を提出する必要があります。認められれば作業ができるようになります」
所有者の男性は、仕事で使っていた倉庫を自費で解体しようとしていた。当局から許可を得るまでに2か月以上かかったという。
さらに、地元当局の関係者からは、「軍は公的機関や関連企業の復旧を優先させ、市民の生活再建を後回しにしている」との話も聞かれた。
自宅を失った人たちが暮らす避難キャンプには…
記者
「竹でできた簡易な住居の中で生活しているということです。電気や水道は当然のごとく通っていませんので、NGOなどによる配給・寄付によって人々の暮らしは今、支えられているということです」
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そうした国際NGOなどによる活動も、軍事政権の影響を受けている。
活動には軍の許可が必要で、配給場所や物資のリストなどを細かく届け出る必要があるという。手続きが複雑で、被災地で活動しにくいのが実情だ。
避難キャンプの住民
「配給が減っています。10日ほど前に米や豆、油を受け取りましたが、その後はなく、今日が久しぶりです」
さらに、地震の後にも空爆や戦闘が続いている地域がある。
内戦下で起きた大地震 被災地に空爆も 支援物資断ち切りの指摘も記者
「マンダレーから川を挟んだ対岸にあるのが、ザガイン管区です。ザガイン管区の一帯は民主派武装勢力が支配していて、軍との激しい戦闘がたびたび起きているということです」
民主的な政治を求めて武器を取った若者たち。クーデター以降、軍の弾圧に抵抗するため軍事組織を結成し、以前から軍と対立していた少数民族の武装組織とも連携しながら、戦ってきた。
民主派の支配地域が点在しているザガイン管区は、地震で最も大きな被害を受けた地域だ。軍は、こうした被災地にも空爆を続けている。
「見て、これは軍の仕業です」
男性が持っているのは遺体の一部だ。
ここは民主派が運営する学校で、軍の空爆により7歳から16歳までの子どもたちと教師、あわせて24人が亡くなったという。
軍は地震後、停戦を表明した間ですら各地で空爆を繰り返していた。さらに軍は、戦闘地域で使われることを警戒し、被災地への支援物資を断ち切っているという指摘もある。
記者
「トラックも止められているね」
ザガインに繋がる橋の付近では、複数の検問所で軍の兵士や警察官が、物資を積んだトラックなどをチェックしていた。
匿名を条件に、私たちの取材に応じたザガインの住民は…
ザガインの住民
「家は全然修理できていません。米、油、塩、薬、建築資材は全く入ってきません。あるものを食べ、なくなれば飢えるしかない」
届かない物資。地震後、戦況にも変化が…。
「攻撃が1秒も止まらない」地震後も続く戦闘で求められる支援大地震から1か月後の2025年4月。長野県の日本人支援者が呼びかけ、ミャンマーの被災地への募金が行われていた。
東京から駆けつけた、在日ミャンマー人のウィン・チョウさんとマティダさん夫妻。
ウィン・チョウさん
「朝6時半ぐらいのバスに乗って。節約しないと、新幹線で来ると高いじゃないですか。少しでも安く来て(支援金を)送れるように」
1980年代にミャンマーの民主化運動に関わった2人。軍事政権の弾圧から逃れるため、36年前に日本に渡ってきた。
その後ミャンマーの民主化が進み、一時帰国も叶ったが2021年2月、軍事クーデターが発生。2人の帰国はまた遠のいた。
「三本指のサイン」は軍への抵抗を示す。過去に民主化運動を成し遂げられなかった責任を感じ、2人は日本からミャンマーの平和と民主化を訴え続けている。
地震のあとも攻撃の手を緩めない軍について…
マティダさん
「地震の中でも国民たちが困っている中でも、攻撃が1秒も止まらない。この独裁者、クーデターにはどうしたらいいのか」
この日、集まった募金は21万5000円。軍事政権に渡らないよう、現地で活動する支援団体に直接届けた。
ウィン・チョウさん
「軍に3億あげるとか4億あげるとか、それじゃあ、それが戦闘機のガソリン代になっちゃうかなと思うので、(現地に)直接本当に行っている団体、日本のNGO・NPOを支援するのが一番いいと私は思っている」
地震後も続く戦闘で、増え続ける避難民。ミャンマーの人々は、さらなる支援を必要としている。
「相手にしているのは軍だけでなく、軍を支援する国々の技術とも戦っている」2025年8月、ウィン・チョウさんとマティダさんが暮らす都内のアパートを訪ねました。
ウィン・チョウさん
「これは国境の避難民たちに送る洋服です」
2人は戦場の若者たちとも連絡をとりあい、物心両面で支え続けてきました。いつしか若者たちは、2人を「日本のお父さん、お母さん」と呼ぶようになりました。
ピ・トゥ・トェイさん(26)は民主派部隊に所属し、ドローンチームのリーダーとして最前線で戦っています。ドローンも自分たちで開発しました。
ピ・トゥ・トェイさん
「このドローンの最大積載量は16キロですが、私たちが載せる爆弾は合わせて10キロほどです。この大きさのだと2つくらいですね」
日下部正樹キャスター
「こういった爆弾はどこから手に入れる?」
ウィン・チョウさん
「自分たちで作る」
ピ・トゥ・トェイさん
「今は基地にいて、緊急時にはすぐ出動できるようにしています」
軍事力では圧倒的優位に立つ軍に対して、戦闘経験のない若者たちは手探りで戦いを進めてきました。
2023年10月27日、事態が動きます。
「1027(イチゼロニーナナ)作戦」と呼ばれる一斉攻撃をきっかけに、攻勢に転じたのです。
民主派側が地方にある軍の拠点を相次いで占拠し、軍の兵士が次々と投降しました。
2024年のインタビューで、ピ・トゥ・トェイさんは「戦いの終わりが近い」と明るい表情で語ってくれました。
あれから1年あまり。大地震のあとの戦況に変化はあったのでしょうか。
ピ・トゥ・トェイさん
「戦闘が以前よりも激化し、広範囲に及んでいます。いくつかの地域は、引き続き私たち民主派が占拠しています。しかし、他のいくつかの地域は軍の攻撃が激しくなり、手放さざるを得ない状況です」
大地震の混乱の中で、民主派が劣勢にまわる地域も出てきているといいます。
そして、軍の後ろ盾として地震の後、いち早く支援に動いた2つの大国の名前を挙げました。
ピ・トゥ・トェイさん
「私たちが相手にしているのは軍だけではなく、軍を支援する中国やロシア、そういった国々の技術とも戦っている状況です。軍は、失う領土が増えれば、他の大国にさらに支援を求めます。経済的な取引という形で他の国々からの軍事物資がより一層増えているのです」
ウィン・チョウさん
「…結構固くなっちゃった、顔が」
インタビューに答えるピ・トゥ・トェイさんの表情からも戦闘が激化していることが伺えます。
「軍事政権に対抗する全ての仲間たちとともに…」軍に屈しない決意私たちが入手した中国の軍事的な関与を示す写真には、2025年7月、マンダレーで活動する民主派部隊が、ミャンマー軍の基地から押収したとする武器が写っている。
弾頭が入っていたとされる箱には、中国最大の兵器輸出企業「NORINCO(ノリンコ)」の文字。
人権監視団体「Justice For Myanmar(ジャスティス・フォー・ミャンマー)」は、「ノリンコがミャンマー軍に武器を供給している」と指摘。私たちは「ノリンコ」に取材を申し込んだが、期限までに回答はなかった。
クーデター当初は、国際世論を気にしていた中国。だが最近では、ミャンマー軍のトップと首脳会談を重ねるなど、経済的な利益を優先して、軍事政権を支援する姿勢を鮮明化させている。
ピ・トゥ・トェイさん
「軍は自らの権力を握り続けるためであれば、国民を殺すことをためらいません。ですから、この状況から抜け出すために、軍事政権に対抗する全ての仲間たちとともに最後まで戦い続けます」
表情をこわばらせたままのピ・トゥ・トェイさんでしたが、インタビューも終わりに来て、表情を緩ませる場面がありました。
日下部キャスター
「平和だったら結婚も考える歳ですよね」
ウィン・チョウさん
「彼女はいますか?」
ピ・トゥ・トェイさん
「います」
日下部キャスター
「今回初めて笑った」
彼女とは戦場で出会いました。
笑顔を見せたのもつかの間、インタビューの後、ピ・トゥ・トェイさんは再び戦場に向かいました。
「目を向けて」負傷してもなお、戦い続ける 民主化求める若者の声クーデター以降、私たちはピ・トゥ・トェイさんをはじめ、戦場で戦う3人の若者と定期的に連絡をとってきました。
今回、アウンカさん、イモンさんとは連絡がつきませんでした。こんなことはこの4年で初めてのことです。
アウンカさんの弟・ウェヤンさん(23)と連絡がつきました。彼は2023年に軍の空爆で足を負傷しましたが、治療を終えて、また戦場に戻ってきました。
日下部キャスター
「今どうですか?足の具合は」
ウェヤンさん
「以前よりずっと良くなって、走れるようになりました。筋を切断したんですが、今は治ってきています」
日下部キャスター
「そういう中でも前線に立とうと思うのは何故ですか?」
ウェヤンさん
「亡くなった仲間も戦場を離れた仲間もいますが、僕たちは全力で戦います。兄とは『勝って一緒に家族のもとに帰ろう』と話しました。できる限り戦います」
兄・アウンカさんも2023年に足を負傷しましたが、戦いを続けています。
ウェヤンさんに、日本の人たちに伝えたいことを尋ねると…
ウェヤンさん
「他の国でも政治問題が沢山起きているので、関心が薄れているかもしれません。ミャンマーで起きていることは、あまり知られていません。目を向けてほしいです」
何度も訪れたウィン・チョウさんとマティダさん夫妻のアパート。3月に訪れた時、いつもとちょっと雰囲気が違いました。
2人の部屋にいたのは、都内にある佼成学園女子高校の生徒さんたち。授業の一環で2024年からネットを通じて、ミャンマーの若者たちとの交流を続けています。
ウィン・チョウさん、マティダさん手作りのミャンマー料理に舌鼓を打ったあと、ミャンマーと結びます。
画面の向こうには、仮設の校舎で学ぶ同世代の若者たち。彼らの学校は1年前、軍の空爆を受け、多くの生徒が亡くなりました。
空爆の被害を伝えるため、生徒たちが当時の様子を再現したビデオ。逃げ惑う生徒たち、破壊された校舎、そして傷ついた仲間。ビデオに映っていたのは、自分たちとは全く違う日常。穏やかだった日本の生徒の表情が変わりました。
練習を重ねてきたミャンマー語の歌を披露する予定だったのですが…
ミャンマーの生徒たちにも促されて決心がつきました。
「桜の土地」より
桜の土地はとても美しく
教育を受けられる場所
紛争を避けてきた子どもたちの世界
様々な花の香りが満ちる庭園のようだ
避難先の学校の事を歌った「桜の土地」。
ミャンマーでも日本と似た桜が見られるそうです。遠く離れた若者たちの歌声が重なり合います。
ミャンマー側の生徒は、自分たちに想いを寄せてくれることが何より嬉しいと言います。
ミャンマー側の男子生徒
「僕たちは一人じゃない。日本のみんなとも一緒にいるように感じました」
日本の高校生
「何ができるんだろうとずっと考えてて、みんなで悩んで、『外から応援してくれる人がいたのが嬉しくて泣いた』と聞いたときに、私たちにも出来ることあったんだなって…」
マティダさん
「これも力ですよ。支援はお金ではない、心も大事」
派手さも気取ったところもない、本当にささやかな交流。
ウィン・チョウさん、マティダさん2人の願いは、戦闘が終わり、若者たちが行き来出来る日が一刻も早く訪れることです。
