【高校野球】阪神ドラフト1位の立石正広を輩出 高川学園はいかにして強豪校へと上り詰めたのか

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2025年10月25日 09:10  webスポルティーバ

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令和の強豪校・高川学園〜躍進の理由(前編)

 山陽新幹線の停車駅のひとつであることから、山口県の陸の玄関口とも言われる新山口駅から山陽本線に乗り換え、進むこと約10分。橋上駅舎の大道(だいどう)駅に降り立つと、高川学園高校・中学校の校舎が眼下に広がる。

 所在地は防府市大字台道。駅名の大道と読み方は同じだが、表記が異なる。その起源は古く、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、台が原という地に借屋を設け「台(うてな)の道」と書いたことから「台道」になったと言われる。駅名は1889年から1955年まで存在した吉敷郡大道村に由来するが、大字名はさらに古い村名である「台道」をそのまま使用。駅名と地名の表記が異なる状態が長く続いている。

【指揮官が明かす躍進の理由】

 高川学園の前身である多々良(たたら)学園が2004年、防府市からこの歴史ある土地に移転。2006年から現校名となった。勉学だけでなく部活動にも力を入れており、サッカー部やバレーボール部は全国でも強豪として知られている。

 特に今年、好成績を残したのは野球部だ。夏の甲子園では4年ぶりに白星を挙げるなど、過去最高の3回戦進出。今秋に行なわれた国民スポーツ大会では決勝まで進み、山梨学院に1対3で敗れたが、堂々の準優勝を果たした。

 2019年冬からチームを率いる松本祐一郎監督が躍進の理由を明かす。

「今年の成績は突然生まれたことではありません。2021年夏に出場した甲子園、またその前後も含めてOBの子たちがつくってきてくれたものだと思っています。この4年間、甲子園に手の届くところまできながらまったく勝てず、悔しい思いをさせてしまいましたが、彼らが必死に頑張って繋いでくれたからこそ勝負できる位置にいることができたし、今があるような気がしています」

 前回2021年夏の甲子園1回戦の小松大谷(石川)戦では、今秋のドラフトで3球団競合の末、阪神が交渉権を得た右の強打者・立石正広(創価大)が本塁打を放つなど、5点差をひっくり返して同校初勝利を挙げた。今夏の主将である遠矢文太(とおや・ぶんた)捕手(3年)ら多くの選手は、立石らの活躍に憧れて入学した世代だ。

「彼らにとってそういう偉大な先輩がいるということは励み、刺激になっているのではないでしょうか。立石に関しては、山口に帰った時によく後輩たちを指導してくれます。野球が好きで、控えの子らにも熱心に教えてくれるんです。本当にすごいなと思いますね」

【ブルペンでの投げ込みはなし】

 プロには多々良学園時代の高木豊(中央大→大洋ドラフト3位)を含め、これまで3人輩出。特に高川学園になってからは投手育成に定評があり、2020年に山野太一(ヤクルトドラフト2位)、翌2021年には椋木蓮(むくのき・れん/オリックスドラフト1位)と、ともに東北福祉大を経由して2年連続で上位指名を受けた。新チームでエースを務める最速146キロ右腕の木下瑛二(2年)は来秋のドラフト候補だ。

 投手指導を担当する西岡大輔部長は中学時代、硬式野球チームの「大阪泉北ボーイズ」で藤浪晋太郎(DeNA)と同期。平均的な体格だった左腕は、すでに身長190センチを超えていた怪物右腕のすごさを間近で感じながら3年間を過ごした。

「藤浪は中学時代から最速143キロとか、フォークとか投げていて、反則でした(笑)。中学1年の頃から知恵を絞り、彼にはないものでどう打者を抑えるかをずっと考えていました」

 その基本理念は高川学園から大阪体育大、そして母校の指導者になっても変わることはない。高川学園の投手はブルペンでの投げ込みはせず、フリー打撃や1カ所打撃などに登板し、対打者のなかで実戦感覚を養っていく。

「中学生や高校生がブルペンで投げていると、違う路線に走ってしまうことが多いです。たとえばブルペンでカーブが2球抜けて、3球目でやっとストライクが入ったとします。本人はようやくストライクが入ったことで感覚的に満足感を得るのですが、実戦でカーブが2球抜けた場合、3球目は違うボールを選択して打者を抑えにいかなければなりません。フォームを固める時なども、ブルペンではなくネットスローをやらせています」

【控えの内野手だった椋木蓮】

 選手の適材適所を見極めたうえで、次のステージへと送り出すのも高川学園の特徴だ。西岡部長は大学時代の2015年、母校にコーチング実習へ訪れた際、当時高校1年だった椋木が控えの内野手として在籍していた。「当時は細くて、ほぼ記憶に残っていないです」と言うように、目立った選手ではなかった。

 しかし、二塁でノックを受けている際、サイドからのスローイングの正確さに魅力を感じ、投手転向を進言。2年春からサイドスローで本格的に投手を始め、同年夏の甲子園メンバーに食い込んだ。

 球速は120キロほどだったが、背番号1で迎えた3年夏には140キロをマーク。引退後に右腕をスリークオーターの高さまで上げたところ、145キロまでアップした。東北福祉大では1年春から登板を重ね、4年時には最速も154キロまで到達し、ドラフト1位でプロ入りするまでに成長。もしそのまま内野手を続けていたら、同じ結果にはならなかったかもしれない。

「椋木は今でこそ中継ぎですごい球をガンガン投げていますけど、高校時代を考えると誰も想像できなかったのではないでしょうか。当時はサイドスローの投手がいなくて、おまえがやれ、といった感じで投手に転向させましたが、一番は本人が自分に期待して頑張ったということが大きかったのではないでしょうか」

 山野、椋木、そして立石も中学の高川学園シニア出身。3人とも中高7年間をかけてじっくりと育成していった結果、大学でその才能が開花した。以前は中学も指導していた松本監督が嬉しそうに口を開く。

「彼らがよく頑張った結果だと思います。山野、椋木、そして立石と、山口にもそういう素材がいて、僕らが唯一できたことは、その素材を殺さずに次のステップへとお預けできたこと。何か画期的な優れた指導をしたとは思っていません」

 偉大な先輩の背中を見て育った後輩たちがその後に続くために、自ら考え、必死に努力を重ねる。だからこそ、高校だけでなく、次のステージでも輝くことができる。高川学園が2025年に残した足跡は、決して偶然ではない。

つづく>>

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