
連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第8回 町田樹 後編(全2回)
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会〜2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。
第8回は、2014年ソチ五輪に出場した町田樹の軌跡を振り返る。後編は、最初で最後の五輪となったソチ大会での戦いと、競技生活のハイライトとも言える羽生結弦との激戦について。
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【誇りと悔しさを味わった最初で最後の五輪】
2014年ソチ五輪の代表を狙って勝ち獲った町田樹。その大舞台のショートプログラム(SP)は、高橋大輔の直後の最終グループ最終滑走だった。最初の連続ジャンプで4回転+3回転の予定が4回転+2回転になってしまうと、後半の3回転ルッツでも2回転になるミスをした。
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「全日本選手権で五輪出場の権利を手に入れてから、これが最後の五輪だと確信していたので、ベストのSP『エデンの東』とフリー『火の鳥』を演じたかった。だからこそ悔しいです」
そう話したSPの得点は、83.48点で11位発進となった。だが、101.45点でトップの羽生結弦と97.52点のパトリック・チャン(カナダ)に続く3位以下は大混戦。11位の町田と3位のハビエル・フェルナンデス(スペイン)との差はわずか3.50点という状況だった。
それゆえ、「2年目の『火の鳥』は2年間で一番いい演技をしたいです。僕が思うパフォーマンスができればメダルに届くと思っています」と、町田は気持ちを切り替え、前を向いた。
しかし翌日のフリーは、冒頭の4回転トーループで転倒するスタートになってしまった。
「4回転に関しては絶対的な自信があったし、最初のジャンプも完璧なテイクオフと回転だったので、絶対降りられるという確信があっただけに驚いてしまった。冒頭の転倒だっただけに、プログラムの前半は精神的にも肉体的にも過酷でした」
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それでも次の4回転トーループに2回転トーループをつけてリカバリーすると、そのあとは最後まで諦めずミスのない滑りを貫き通した。
「最後まで強い自分を維持して戦い抜いたことを誇りに思ったし、やりきりました。団体戦から長い緊張状態のなかで過ごしたのでとても過酷でしたが、ようやく肩の荷を降ろすことができたなという気持ちです」
納得の言葉を口にする一方で、「一番大きいのは悔しいということ」とも話した。
「僕にとって最初で最後の五輪が終わりましたが、自分が心から満足する演技ができなくて。本当に悔しかったなというのが一番です」
フリーの得点は169.94点で4番目。合計253.42点として総合順位を5位まで上げた。ただ、SP9位から巻き返して銅メダルを獲得したデニス・テン(カザフスタン)の得点は255.10点。町田との差はわずかだった。町田のSPのルッツが3回転になっていれば5点以上は上乗せされていただけに、「あのミスがなかったら銅メダルだった」という悔恨の思いは強かった。
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【五輪直後、羽生結弦との熾烈な戦い】
「(五輪での)悔しさがあったからこそ、次の世界選手権があった」と言う町田。ソチ五輪閉幕から1カ月後に行なわれた初出場の世界選手権さいたま大会は、彼の競技人生におけるハイライトのひとつと言える。ソチ五輪金メダリストの羽生結弦の凱旋試合とも言える大会だったが、そこで繰り広げた羽生との熾烈な優勝争いは感動的だった。
SPで先手を取ったのは町田だった。羽生が冒頭の4回転トーループで転倒して91.24点と、ノーミスだったフェルナンデスに次ぐ3位になったことに対し、町田はノーミスの滑りで98.21点を獲得し首位発進を決めた。
「今日は不思議に無心になれて、最後までしっかり冷静に踊ることができました。98点は自分のなかで光栄だしうれしいですが、それ以上に1年間踊ったなかでベストの演技だったのがうれしいし、それができた自分を誇りに思います」
町田の演技構成点は、羽生に僅差の全体2位。こだわり続けた表現力も評価された結果となった。
2日後のフリーは、最初の4回転トーループを連続ジャンプにできず、2本目に2回転トーループをつける滑り出しになったが、そのあとは力強い演技を披露。ただ後半に入るとトリプルアクセルと3回転ループが着氷で若干乱れて、GOE(出来栄え点)加点をもらえないジャンプとなってしまった。
「最初の4回転は空中で失敗したと思いました。そこから自分の呼吸もペースも乱れて非常に厳しくて、途中では本当にヤバいと。でもこれが今シーズン最後の舞台だし、ここで負けたくないという思いだけでやって。最後はもう根性でした」
そう苦笑した町田。最後は疲労がにじみ出るほどだったが、大きなミスもなくまとめた演技で自己最高の184.05点を獲得し、合計も自己ベストの282.26点。ふたりあとに滑る羽生にプレッシャーをかけた。
そんななか、羽生も意地を見せた。完璧とは言えない滑りながらも、底力を発揮して191.35点を獲得する演技で、合計は町田を0.33点上回る282.59点。町田もよく追い詰めたが、羽生にはわずかに届かなかった。
それでも大会終了後、「まだプログラムにあ粗があったし小さなミスもあったので、自分にはまだ伸びしろがあると実感しました」と満足した表情を見せた町田。続けて、こう語った。
「全日本からソチまでは現状維持をするのが精一杯でしたが、ソチが終わってからは自分のなかで向上心がわいてきて、火に油を注ぐようにモチベーションが上がりました。一日一日進化してやろうと思ってやってきたのがこの結果につながったと思います」
【世界選手権代表選出も突如の引退発表】
翌2014−2015シーズンは、前季と同じフィリップ・ミルズ氏による振り付けのSP『ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲』、フリー『交響曲第9番』で臨んだ。
GPシリーズ初戦のスケートアメリカは269.09点で優勝したが、2戦目のフランス大会は得点を下げて2位。3年連続出場のGPファイナルはSP2位発進も、フリーで大きく崩れて総合6位に終わった。
そして、全日本もSP2位発進からまたもフリーで崩れ、242.61点で総合4位。2位がジュニアの宇野昌磨だったため2回目の世界選手権代表に選ばれたが、その発表があった氷上で町田は代表の辞退と競技引退を表明した。
翌年4月から一般入試で受験した早稲田大学大学院スポーツ科学研究科での学業に専念すると明かし、「今大会の演技を終えた晴れやかな気持ちで、本日の朝、引退を決断しました」と話した。
その後は学業の傍らプロフィギュアスケーターとして、アイスショーで自身が振り付けた独創的な作品も数々披露したが、2018年秋にはプロ活動もやめ、自身の研究活動に専念している。
シニアの世界トップで戦ったのは3シーズン弱。町田は軽やかなピケターンで、その時間のなかを一気に駆け抜けていったようだった。
終わり
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<プロフィール>
町田樹 まちだ・たつき/1990年、神奈川県生まれ、広島県育ち。2006年全日本ジュニア選手権で優勝し、シニア移行後は2012年GPシリーズ・中国大会で優勝。GPシリーズ・スケートアメリカでは2013年、2014年と連覇を果たす。2013年全日本選手権で2位となり、2014年ソチ五輪に出場(5位入賞)。2014年世界選手権でも2位になるなど数々の大会で好成績を収める。2014年に競技活動を引退。2015年に関西大学を卒業し、同年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程へ進学。2020年3月に博士後期課程修了、博士(スポーツ科学)を取得。2024年から、國學院大学人間開発学部健康体育学科准教授に。

