
石川県かほく市宇野気(うのけ)は、PFUの創業の地でもある。
今ではドキュメントスキャナー「ScanSnap」シリーズや、キーボードの「HHKB」(Happy Hacking Keyboard)でおなじみの同社だが、この11月で創業65周年という歴史を持つ企業だ。
設立当初は、地元の中学校の古い講堂を借りて7人で創業という、コンピュータを一から開発したスタートアップ企業だった。
宇野気にある本社にはエポックメイキングな製品が複数展示されており、同社の変遷を知ることができる。ここでは、短期集中連載という形で同社の65年にわたる歴史から現在に至るまでの道のり、その強さの秘密などを解き明かしていこうと思う。
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●PFUが誕生するまでの道のり
まずは、PFUという社名の由来を知っているだろうか。
先に正解を言うと、Pはパナソニック、Fはファコム(富士通)、Uはユーザック(ユーザック電子工業/内田洋行)である。
PFUの歴史は、1960年に石川県宇ノ気(現・かほく市宇野気)において設立したコンピュータメーカーのウノケ電子工業が前身だ。
同社を創業したのは、宇ノ気町で歯科医院を営んでいた深江溢郎さんである。開発の中心なったのは、日立製作所で国産第1号コンピュータの開発に携わっていた竹内繁さんで、竹内さんも宇ノ気の出身者だ。
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宇ノ気中学校の古い講堂を借りて7人で創業したスタートアップ企業であり、「Unoke Standard Automatic Computer」の意味を持つ「USAC」(ユーザック)ブランドの小型コンピュータ「USAC 3010」が最初の製品だ。
だが、コンピュータを開発する過程の中で多くの開発資金が必要なこと、販売機能を持たない同社にとって、販路拡大が必要であることを背景に、同じ石川県出身である久田忠守さんが会長を務めていた内田洋行に協力を要請した。内田洋行は、ウノケ電子工業が生産する全てのコンピュータを販売する契約を結ぶと共に出資を決定し、1962年9月には「USAC 3010」を正式に発表したのだ。
1963年3月に、第1号ユーザーとして山形県酒田市の計算センターに納入したが、事業計画には課題があった。USAC 3010では4年間で1800台の販売計画を打ち出し、1963年5月にプロトタイプを完成させた「USAC 1010」では、3600台という大規模な事業計画を発表した。
●紆余曲折を経て誕生したPFU
だが、コンピュータの黎明(れいめい)期においては、あまりにも無謀な計画であり、発売直後の売れ行きの鈍さからも計画の見直しが迫られていたのだ。
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大規模な事業計画では見込み生産体制としていたことから、売れなければ在庫は増えるばかりである。内田洋行からは、受注生産体制へと移行する提言がなされたが、事業計画の達成を目指すウノケ電子工業は、工場の拡張や人員採用などを推進。結果として、1963年には資金難に陥り、内田洋行が株式の過半数を譲り受けて再出発を図ることになった。
ウノケ電子工業は、設立からわずか3年で大きな転換を迎えたのである。
ウノケ電子工業では、内田洋行の子会社となった後に事業計画を見直し、その後も小型コンピュータの開発/生産を継続した。
1969年9月にはユーザック電子工業に社名を変更し、伝票発行専用機のビリングマシン事業を成功させた。また、1970年代に入ってからはオフコン市場の拡大によって事業を拡大。ミニコンでもリーダー的な役割を担った。
1972年3月には、富士通や内田洋行、ユーザック電子工業の3社が、コンピュータの開発/製造/販売に関する包括提携を行い、ユーザック電子工業は、FACOMとUSACの専用工場となった。
その一方、現在のPFUにつながる、もう1つの動きが始まっていた。
1973年7月に、ミニコンピュータおよび関連装置、ソフトウェアの研究/開発/製造/販売を行うことを目的に、パナファコムが設立されたのである。
資本金は10億円であり、出資比率は富士通が35%/富士電機が15%/松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)が20%/松下通信工業(現・パナソニック コネクト)が25%/松下電送機器(現・パナソニック システムソリューションズ ジャパン)が5%という構成だ。
富士通とパナソニックが肝入れで設立したコンピュータ企業であり、当時の松下電工の丹羽正治社長が会長を務め、富士通の高羅芳光社長が社長を兼務した。出資各社の社長全員が取締役に名前を連ねたことからも、力の入れようが分かる。
パナファコムは世界初の16bitマイコンを完成させ、1977年には日本初の16bitマイコンキット「LKIT-16」を商品化している。その後は、富士通の法人向けPCである「FACOM 9450シリーズ」の開発などでも重要な役割を果たした。
このように別々の経緯を経て設立したユーザック電子工業とパナファコムは、1987年4月に合併し、新たな会社としたPFUが誕生したのである。
PFUには、富士通グループが51%、松下電器グループ(現パナソニック)が22%、内田洋行が21%、その他企業が6%を出資。オフコンのトップメーカーの一角だったユーザック電子工業と、ミニコンおよびパソコンで成長を遂げてきたパナファコムの合併により、国内最大規模となるオフコン/ミニコン/パソコンのコンピュータ専業メーカーが誕生した。
さらに1983年には、イメージスキャナーの第1号機として「U4301A」を発売した。1996年には高性能コンパクトキーボード「Happy Hacking Keyboard(HHKB)」を投入し、1998年には売上高2000億円を突破する規模にまで成長した。
イメージスキャナー事業は、2001年7月10日に国内で販売を開始したパーソナルイメージスキャナー「fi-4110EOX」を皮切りに、後に同社の代表的ブランドとなる「ScanSnapシリーズ」をスタートしている。
2002年からはグローバル展開を開始し、2009年12月には世界累計販売台数が100万台を突破するヒット商品となった。2023年2月には、ScanSnapシリーズを始めとしたイメージスキャナー全体の累計出荷台数が1500万台を突破している。
2009年以降は、世界シェアNo.1を維持しており、日本でのシェアは74%、北米では40%、欧州では34%と、いずれの地域でもトップシェアを誇る。
●富士通を経てリコーの子会社に
一方、2002年には、ユーザック電子工業時代からの生産拠点の要であった石川県かほく市の笠島工場を、富士通グループの構造改革の一環として「富士通ITプロダクツ」として分社した。出資比率は富士通が55%、PFUが45%だ。
同生産拠点では、その後に富士通製のメインフレームやUNIXサーバーなどの他、世界1位の処理能力を誇ったスーパーコンピュータ「京」や「富岳」の生産も行われた。
PFUは2010年4月に富士通の100%子会社となり、2022年9月にはリコーが80%の株式を取得し、リコーグループの1社となり、2025年3月にはリコーの100%子会社となった。
現在、PFUではパーソナルイメージスキャナーのScanSnapシリーズや、業務用イメージスキャナーであるfiシリーズを中心としたドキュメントイメージング事業、ITインフラの構築および運用、個別システムの開発、IT機器の販売やサービスなどを行うインフラ・サービス&インテグレーション事業で構成されている。
2024年度の売上高は1220億円でグループ社員数は3960人。石川県かほく市の本社に加えて、横浜市みなとみらいに横浜本社を設置している。また、石川県かほく市では、板金加工からプリント板ユニット製造、BTO組立までを行うProDeSセンターを持つ。
さらに、シンガポール/中国/香港/米国/カナダ/英国にも拠点を持つ。
次回は、同社のスキャナー製品を中心に見ていく予定だ。
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