川上哲治さん命日 長男寄稿文につづられた長嶋茂雄さんと川上家の知られざるエピソード/寺尾で候

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2025年10月28日 10:17  日刊スポーツ

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日刊スポーツ

川上哲治監督から酒をついでもらう長嶋茂雄(1972年1月撮影)

<寺尾で候>



日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。


     ◇    ◇     ◇


日本シリーズまっただ中の10月28日は、巨人監督で不滅の9連覇を成し遂げた川上哲治の命日にあたる。頂上決戦に巨人の姿はない。“勝負の鬼”の墓に供えられた花々をつたう夜露が涙に映った。


巨人担当歴最長17年の“川上番”、三浦勝男(日刊スポーツ元代表取締役)から参考にと差し出されたのは、スコーレ家庭教育振興協会が発刊している生涯学習誌「すこ〜れ」に掲載された、川上の長男・貴光(よしてる)の寄稿文だ。


ノンフィクション作家でもある貴光のコラムは「詰襟(つめえり)」という題名。そこには今年6月3日に亡くなった長嶋茂雄と川上家との知られざるエピソードがつづられている。


「立教大学の詰め襟姿でわが家にやってきたときが、たぶん長嶋さんを見た最初だったと思う。大学野球の人気選手。応接間の扉をそっと開けて、小学生だったぼくはドキドキしながらのぞき見たのを覚えている」


「下宿先が見つかるまでのしばらくの間、長嶋さんはわが家で寝泊まりをしていた。休みの時は近所の公園でキャッチボールをしたり、空き地でたこ揚げに付き合ってくれたり、年の離れた弟のようにかわいがってくれた」


正月には、毎年一緒に明治神宮に初詣に出かけたのだという。


「長嶋さんが亡くなったあと、妹が当時の写真を見つけた、とスマホに送ってきてくれた。妹は言った。『夏にはプールに連れていってくれたり、本当にかわいがってくれたのよ』。長嶋さんが結婚し、上北沢に住むようになってからも明治神宮の初詣は続いた。一茂クンや三奈さんたちと写っている写真もある」


スーパースターとして王貞治らと巨人を支えた長嶋は、川上の後継として監督の座に就いた。


「監督としての長嶋さんに危ういものを感じていた父は、有能なコーチなどで彼を支える案を示したが、不仲の当時のオーナーから遠ざけられ、助言することも口を利くことも難しい立場になっていく」


「やがて、長嶋解任事件が起こる。長嶋をクビにして藤田元司が監督になったのは、裏で川上が動いたからだ、とマスコミはかきたてた。父のほうから球団に解任を助言した事実はない。だが後任に藤田さんを推したのは確かに父だった。結果的には、長嶋監督をかばうことをしなかったことになる」


これが引き金で両者は微妙な関係になっていったのだろうか。


「『冷たいじゃないですか』。長嶋さんはたぶんそう思ったのだろう。翌年の正月から、年賀状がピタリと来なくなった」


「あるとき、一茂さんから父に手紙が届いたことがあった。選手を引退した後、彼はテレビで活躍し始めていた。自分の番組に出演してほしいという内容の、毛筆で丁寧に書かれた手紙だった。だが、父は断った。これに限らず、父はテレビ出演が苦手で嫌いだった。丁寧な断りの最後に、『最近、貴君がお父さんや妹さんとうまくいっていないと聞きますが、本当なら、一日にも早く仲直りして、親孝行してあげてください』そんな返事を書いたのを覚えている」


川上が亡くなった際、長嶋は自宅を弔問している。


「長く疎遠だったが、父が亡くなった時には不自由な体を押して自宅に駆けつけてくれた。祭壇の前で、十分近く、目をつぶってじっと座っていた姿を今も忘れない。そこは詰め襟の長嶋さんをぼくが初めて見たときと同じ応接間だった。帰り際、『懐かしいねえ、また今度、どこか一緒に食事にでも行きたいね』。あの頃のままの笑顔でぼくたちきょうだいに話しかけてくれた長嶋さん…」


そして貴光は「お別れの会には絶対行こう。妹とそう話したところだ」と結んでいる。


川上と長嶋。さまざま取り沙汰される2人の関係だが、時空を超え、盟主巨人の歴史と伝統を築き、プロ野球界を支えてきたことは言うまでもない。(敬称略)

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