【プロ野球】都立高出身から1億円プレーヤーとなった秋吉亮が明かす「ブレずに貫いたサイドスローの哲学」

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2025年10月28日 18:01  webスポルティーバ

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秋吉亮インタビュー(前編)

 都立高から大学、社会人を経てプロ野球へ──。ヤクルトのリリーバーとして2015年のリーグ制覇に貢献し、侍ジャパンのメンバーとして第4回WBCにも出場した秋吉亮が、自身の野球人生を語る。高校入学後に本格的に投手を始め、高津臣吾氏や潮崎哲也氏から学んだ投球術、そしてプロ3年目で到達した1億円プレーヤー。その裏にあった努力と信念とは?

【自信になった斎藤佑樹との投げ合い】

── 野球を始めたきっかけは?

秋吉 通っていた幼稚園のバスの運転手さんが野球のクラブチームの代表で、小学校1年生から野球を始めました。中学に進学すると、平日は公立中学の軟式野球部、週末は軟式クラブチームでプレーしていました。

── 高校進学の際、都立の足立新田高を選んだ理由はなんですか?

秋吉 僕自身、当時はレベルの高い選手ではなかったですし、実家の近くで野球をやれる高校を探しました。クラブチームに足立新田に行った先輩がいて、いろいろと野球部のことを聞きました。

── 高校に入ってから投手を始め、またサイドスローになったきっかけはなんだったのですか。

秋吉 小学校時代は野手、中学時代は二塁までノーバウンドで届かない捕手でした。高校1年秋に畠中陽一監督(当時)から投手、それもサイドスローを勧められました。野球人生において、これがほんとに大きかった。いきなりサイドスローで、オーバースローで投球練習をしたことは一度もありませんでした。高津臣吾投手(元ヤクルトなど)、潮崎哲也投手(元西武)のシンカー、林昌勇投手(元ヤクルト)のストレートを参考にしました。

── 秋吉さんの投球フォームは"でんでん太鼓"をイメージしたものだと聞いたことがありますが、その理由は?

秋吉 高校、大学、社会人、プロと、どのカテゴリーでも「左腕を左胸でたたみ、右腕を出してこい」と言われつづけてきました。しかし、直そうという気はなく、自分としては左腕を回して引っ張ることによって投げるほうが、右腕が出てくるというイメージでした。

── 高校2年秋に投げ合った早稲田実業の斎藤佑樹投手(元日本ハム)とは同世代なのですね。高校3年夏は、東東京大会で母校を初のベスト4へと導きました。

秋吉 佑ちゃん(斎藤佑樹)はすでに有名でしたので、負けたとはいえ接戦(1対3)だったことは、やはり自信になりました。高校3年夏はもちろん甲子園が目標でしたが、1年からずっと練習をつづけてきた成果が、ベスト4という結果につながったのだという自負はあります。

── 都立高から甲子園に出場したいという特別な思いがあったのではないですか。

秋吉 3年夏は4回戦から3試合連続完封勝利のあと、準決勝の帝京戦で敗れました。練習量や環境設備など、私立高のほうが恵まれているでしょうが、私立の強豪を倒さなければ甲子園の土を踏めませんし、自分自身も注目されません。当時の帝京には中村晃選手(ソフトバンク)や杉谷拳士選手がいました。

【大学、社会人で大舞台を経験】

── 大学は中央学院大に進まれましたが、どのような経緯で決まったのですか。

秋吉 東東京大会ベスト4に入って、いくつかの大学からお話をいただいたのですが、千葉県大学野球連盟の1部であることや実家から通えるなど、総合的に判断して選びました。4年春のリーグ戦でMVP、全日本大学選手権にも出場しましたし、4年は春秋とも最多勝投手になれました。

── 大学卒業後は社会人野球のパナソニックに進まれますが、プロ入りは考えなかったのですか?

秋吉 大学でそこそこの成績は残せたのですが、社会人野球でもっとレベルアップしてからでも遅くないと思い、最初に声をかけていただいたパナソニックに入社しました。2年目に都市対抗でベスト8、日本選手権ベスト4。プロからの打診もあったのですが、会社への恩返しもあって、もう1年残ってからプロ入りしました。

── 当時、戦っていたなかでプロ入りした選手はいましたか。

秋吉 大阪ガスの松永昂大投手は2012年ドラフト1位でロッテ、公文克彦投手も同年4位で巨人に指名され入団しました。あと日本生命の小林誠司選手は2013年にドラフト1位で巨人入りしました。

── 秋吉さんは2013年にドラフト3位でヤクルトに指名され入団しました。

秋吉 プロに入りたいという思いが強かったので、正直、指名順位はあまり気にしていませんでした。とにかく1年目から結果を出すという気持ちだけでした。

── これまで都立高校からは高江洲拓哉投手(府中工/元中日)、佐々木千隼投手(日野/DeNA)、石川柊太投手(総合工科/ロッテ)、ブライト健太外野手(葛飾野/中日)といった選手たちがプロ入りを果たしています。

秋吉 都立高でも限られた練習スペースを活用しようとか、2、3時間でも効率のいい練習をしようとか、意識次第でレベルアップできると思います。そして、大学や社会人で腕を磨いてからプロにいく選手は、今後も増えていくと思います。

【プロ4年目に年俸1億円の大台突破】

── プロ初登板は、当時広島だった丸佳浩選手に先頭本塁打を打たれました。

秋吉 プロ初登板の最初の打者だったので、「ホームラン、いきなりいかれちゃったな」という感じでした。

── しかし、プロ1年目は61試合に登板しています。

秋吉 社会人時代はほぼ先発完投でした。プロでは先発で2試合投げて2連敗したのち、リリーフで登板したのですが、これがはまりました。それから59試合リリーフで投げました。

── プロでやっていけるという自信めいたものをつかんだのはいつですか。

秋吉 "この試合"ということではなくて、1年目の2014年はがむしゃらにチーム最多の61試合(19ホールド)に投げました。それが自信になって、2年目、3年目のリーグ最多登板につながったのだと思います。

── 2015年は、チームの14年ぶり優勝に貢献するなど順風満帆でした。秋吉さんの投球スタイルを自己分析すると?

秋吉 ストレートは最速150キロ出ました。変化球はチェンジアップとスライダーの基本2つでした。そんななかでもスライダーは曲がりの小さなカットボール的なものと、斜め下に落ちる2種類。チェンジアップは右打者にはタテに落ちるもの、左打者には外に逃げていくものを投げ分けていました。とにかく、打者に的を絞らせないように工夫していました。

── 現役時代の平均奪三振率8.24個は、リリーバーらしく高いです。

秋吉 特に三振を狙っていたわけではないですし、本格派だとも思っていませんでした。たとえば、巨人の大勢投手はストレートが多めですが、自分はストレートと変化球の割合は半々くらいで、スライダーが得意だったのでカウント球としても使っていました。

── 2015年の日本シリーズは、ソフトバンクに1勝4敗。印象に残っていることは?

秋吉 当時のソフトバンクは、特に強かったですね。どのバッターもすごいスイングをしていました。なかでも柳田悠岐選手は球界を代表する強打者でした。ただ、柳田選手もそうですが、当時オリックスの吉田正尚選手(現レッドソックス)といった強打者との相性はよかったと思います。

── セットアッパーとクローザーの違いは何だと思いますか。

秋吉 どちらも基本1イニングというのは変わらないのですが、セットアッパーは相手の先頭が右打者なら右投手、左打者なら左投手が投入されることが多いです。一方のクローザーは左右に関係なく登板しますし、チームを勝利に導くのが仕事です。両方やりがいはありましたが、自分的には最後を締めるクローザーのほうが好きでした。

── 推定年俸は1億1000万円まで行きました。

秋吉 投げれば投げるほどお金はもらえますし、逆に結果を出さなければ二軍に落ちて、お金ももらえない。プロはそういう世界だと思います。

つづく>>


秋吉亮(あきよし・りょう)/1989年3月21日生まれ。東京都出身。都立足立新田から中央学院大、パナソニックを経て、2013年ドラフト3位でヤクルトに入団。1年目から中継ぎとして頭角を現し、2年目の15年にはチーム最多の74試合に登板して日本一に貢献した。17年には侍ジャパンの一員として第4回WBCに出場。6試合に登板して防御率0.00の好成績を挙げる。18年オフにトレードで日本ハムに移籍。19年は自己最多となる25セーブをマークした。21年オフに自由契約となり独立リーグでプレー。22年のシーズン途中、ソフトバンクに入団するも同年オフに戦力外を受ける。23年は選手兼コーチとして独立リーグに復帰するも、同年限りで退団し現役を引退。現在は講演、技術指導など野球の普及活動に励んでいる

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