
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち14:坂本博之
世界チャンピオン。ボクサーならば、誰もの究極の目標地点であるのに違いない。その夢の行き先が4団体に分かれた現代でも、たやすくたどり着ける場所ではないことも誰もが知っている。
坂本博之(角海老宝石)――豪打で鳴らしたこの男は、あるいは、人生のすべてをかけてこの頂点に挑み続けた。だが、1990〜2000代に4度も頂に挑みながらも、勝負の女神は、そのひたむきな純情についに目をくれることはなかった。<文中敬称略>
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【『世紀の一戦』で畑山隆則に敗れる】
「坂本博之」と書いて「おとこぎ(気)」と読む。
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1990年代の感覚そのままの表現で申し訳ないが、私たちボクシングファンの多くは、坂本博之というボクサーの絵姿にそういう言葉をあてた。
リングの中では孤高の勇者だった。いかなる強打の持ち主、技巧の手練れを相手にしても、黙々と前進し、己の渾身の一打を狙った。左フック、右のオーバーハンドブロー。いずれも破壊的だった。さらにチャンスと見るや、熱情とともに非情のフォローアップを仕掛け、ノックアウトへと追い立てる。それこそが、プロボクサーとしてのもっとも誠意ある仕事と言わんばかりに。
インタビューでの応対も、誠実そのものだった。どんな質問に対しても、その真意を吟味するようにかみしめてから、いっさいの虚飾を排して答えを口にした。記憶に強く残っているのは、2000年、4度目の世界王座挑戦となるWBA世界ライト級チャンピオン、畑山隆則(横浜光)との一戦を前にした取材だった。一つひとつ丁寧に受け答えしていく坂本に、こんなことを尋ねた。
「畑山選手は以前、坂本選手と何度かスパーリングをして、スキを見つけたという主旨の発言をしていますが」
なにかの記事の切れ端で見かけた不確かな情報が元だった。
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坂本の表情は一瞬、こわばったようにも見えた。そして、勢いをつけるように「うん」とうなずいた後、こんな意味のことを答えたように思う。
「それならそれで、(彼が)そのスキをついてくればいいでしょう」
大事な戦いを控えるボクサーに対するものとしては、あまりにぶしつけだったかもしれない。実はこの質問をしたことで、その後に関係者からうんと叱られることになるのだが、当時、新たなミレニアムを呼ぶ「世紀の一戦」への覚悟を聞きたかったのは確かだ。
坂本と畑山のスパーリングはずっと以前のこと。すでに東洋太平洋タイトルを獲得し、世界が間近に見えていた坂本に対し、畑山はまだ一介の新人王にすぎなかった。時を経て、立場は逆転していたが、畑山は依然「挑む」側であり、坂本は「受けて立つ」立場であったのは間違いない。
2000年10月11日、横浜アリーナで行なわれた両者の戦いは、坂本の強打と闘志を真正面から受け止めた畑山がはっきりと打ち勝った。9ラウンド終了時に坂本をグロッギーに追いやると、10ラウンド18秒、右ストレートで一代の拳豪を大の字にダウンさせ、決着をつけたのだった。勝負を分けたのが、坂本が持つスキだったとはいまだに断言できない。
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【過酷な少年時代を経て】
坂本を語るとき、その前半生を抜きにはできない。
過酷な過去だった。幼いときに両親が離婚、弟とともに預けられた先で、ひどい虐待にあった。まともな食事にありつけず、弟が倒れ、あらためて児童養護施設に預けられた。ここでの日々がなかったら、坂本少年の生涯はどうなっていたかはわからない。この場所で少年は人の温もりを理解し、生き抜くためのよるべも見つけた。「信じられるのは弟だけ」と閉ざしていた心は、施設の管理者たち、同じ環境にある仲間たちの支えのなかで、少しずつ人への理解、感謝の心が植えつけられていった。
坂本の胸にはすでに大きな野心が居座っていた。ボクシングである。小学3年生の頃、施設のテレビで見た"殴り合い"に心は強く弾けた。世界チャンピオン。夢を持ちたい。そして、その扉を押し広げられるのは自分の力でしかない。こういう心の道程を導いたものは、幼時の悲劇がもたらしたものではなく、生まれながらの坂本の気質だったと個人的には思う。
養護施設を出ると上京、高校生活を経て、ボクシングジムに入門した。20歳でプロデビューし、坂本はその夢への第一歩を記す。
【最後の一枚の扉はあまりに分厚かった】
連戦連勝で新人王戦を制したころから、リングサイド雀たちは騒ぎ出す。
「あの男、何かが違う」。パンチが強いとかだけじゃない。オーラがすでにある。野心の輝きというものなのか。最強のボクサーに必須のキラー・インスティンクト(闘争本能)がその戦いにはあふれていた。
13戦目となる1993年暮れの戦いでは、リック吉村(石川)を9ラウンドでTKOに破り、日本ライト級王座を獲得した。米軍の黒人兵だったリックはその後、このタイトルを取り戻し、22度も守る名チャンピオンになった。翌年にはスーパーライト級に上げて、このクラスの不動の日本王者だった桑田弘(進光)を10ラウンドに倒す。1995年には前世界スーパーライト級王者ファン・マルティン・コッジ(アルゼンチン)にプロ20戦目にして初黒星を喫したものの、同年、辰吉丈一郎(大阪帝拳)とともに米国ネバダ州ラスベガスに飛び、あのフロイド・メイウェザー・ジュニア(アメリカ)の叔父にあたる強豪ジェフ・メイウェザーに勝つ。もはやプロボクシングという世界で行っていない場所は、世界チャンピオンの居留区以外にはなくなった。
しかし、結果的には坂本はそのあとの一歩が踏み越えられなかった。ライト級の世界王座に4度挑み、いずれも跳ね返されてしまうのだ。
1997年、堅調な技巧派サウスポーながら決定打に欠くWBC王者スティービー・ジョンストン(アメリカ)に1−2の判定負け。翌年、そのジョンストンに勝ったセサール・バサン(メキシコ)の長身(180cm)にはリーチ差を打ち破れずに完敗。さらに2000年3月、WBA王者ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)には初回に2度もダウンを奪って、会場の両国国技館の観客を総立ちにさせたが、セラノに長いジャブと右ストレートを狙い打ちされ、右目が大きく腫れ上がり負傷TKO負け。そして、冒頭の畑山戦の敗退へとつながる。
ここまでで坂本の世界制覇の野望は断たれてしまったが、リングをあきらめることはなかった。だが、椎間板ヘルニアの持病もあって、苦しい戦いが続く。2007年、ついに現役生活をあきらめた。
引退後はSRSボクシングジムを運営しながら、社会奉仕活動を続ける。「これほどに応援してもらったのだから、自分は勝者」と自身が巣立った福岡市の児童養護施設『和白青松園』の子どもたちが作る手製チャンピオンベルトを誇らしげに腰にする。
「人生には敗者のほうが多い」。それでも、希望を持って自分の明日を探すことが大事。だからこそ「何かあったら、さかもっちゃんに相談してほしい。話してほしい」。
世界王者にはなれなかったけど、苦難を乗り越えて人生を勝ち抜いた坂本なら、きっと、よりよい答えを用意してくれる。
さかもと ひろゆき●1970年12月30日生まれ、福岡県田川市出身。児童養護施設に育ち、小学生時代にボクサーを目指すようになる。20歳のときにプロデビュー。170cmのがっちりした体から繰り出す強打で全日本新人王、日本ライト級王座を無敗のまま獲得。96年には東洋太平洋ライト級王座を手にし、その翌年から3度、世界挑戦を繰り返すが、いずれも敗れた。2000年にはWBA世界ライト級チャンピオンとなっていた畑山隆則(横浜光)相手に4度目の世界挑戦。大きな注目を集めた一戦に10ラウンドTKOで敗れた。2007年まで現役を続け、引退後はSRSボクシングジムを主宰しながら、積極的に社会奉仕活動も行っている。現役時代は勝又ジムを経て、のちに角海老宝石ジムに所属。右のファイター型。47戦39勝(29KO)7敗1分。
