SUPER EIGHT公式Instagramより 10月、一般女性との結婚を発表したことが大きく報道されたSUPER EIGHT(旧・関ジャニ∞)の村上信五。
バラエティ番組『月曜から夜ふかし』などでお茶の間に親しまれてきた彼だが、改めて考えると、その“立ち位置”は極めてユニークだと言える。
◆村上信五のパブリックイメージ
村上信五の一般知名度・認知度は、STARTO社および旧ジャニーズ事務所のタレントの中でもおそらくかなり上位。SMAPやキンキ、V6、嵐あたりのメンバーと同じように広く知られ親しまれている。それは間違いないことだ。
それでいて、かつての関ジャニ∞、現在のSUPER EIGHTのライブパフォーマンスにおいて決してど真ん中のポジションでなく、俳優としての活動は『はぐれ刑事純情派』シリーズ(テレビ朝日系)や『ハクション大魔王』(フジテレビ系)などが印象に残るが、近年はあまり行っていない。
やはりその立ち位置は、歌手、俳優というよりは司会者、MCのカラーの印象が圧倒的に強い。
いかにも関西人らしいしゃべりとツッコミの切れ味、そして場を回すうまさ。そうでありながら、どこか“笑っていいやつ”的なイメージがいつのまにか定着していたような気がする。
これは笑わせてくれるという認識とは少し違うが、村上に感じる、スターオーラよりも気さくでおもろいお兄ちゃん感につながるものだろう。つまり、距離が近い。そんな存在だ。
この“笑っていいやつ”というイメージの定着にあまりにも大きく貢献したのが『月曜から夜ふかし』の存在だ。現在の村上信五像のけっこう大きな部分は、この番組が作り上げた村上信五像であると言っていいかと思う。
同番組でのダブルMCとなるマツコ・デラックスとの掛け合い、マツコの圧強めのいじり。
とても失礼ではあるが、番組内のいじりでついたイメージは、なんなら「うさんくさい」まであるかと思う。
コンプライアンスきびしい時代を迎えながらもそこを笑いとして許容させる二人の掛け合いがかもしだす空気感、なにより村上の、「おまえ、そういうけどな」とタメ口のように返すことのできる「返す力」の高さあってのことに立脚したものではないだろうか。
◆関西ジャニーズJr.時代の存在感
とはいえ、そもそも村上信五は、その甘いマスクが「木村拓哉似」とされたり目元が雛形あきこに似ていることから「ヒナ」という愛称で呼ばれたりするような、ルックスも大きなウリとする、高いアイドルポテンシャルをもつメンバーだったはずだ。
デビュー前は関西ジャニーズJr.(当時)の一員として、渋谷すばる、横山裕などのちの関ジャニ∞のメンバーとなる面々と中心的存在として活躍を続けてきた。
一方で、当時からより優遇されていたメンバーを引き合いにした不憫な自虐ネタを披露するなど、トークの才能の片鱗は若いころから見えており、そこが最大限に生かされる番組と相方(マツコ)に出会ったことが村上の持っていた運、次々現れる後輩タレントともかぶらず、誰にも負けない「返す力」、現在に至る独自の地位を引き寄せたといえる。
旧ジャニーズに所属していたタレントの中におけるMC向けタレントとしての能力は、相当高い。
何年も前からマツコに「紅白司会を狙っている」といじられ続けているのも、そもそもそういった能力があることは疑いない事実であるからだ(だいたい好感度やお金が好きみたいな話で「ムリだな」とオチるところまでがセットであるわけだが)。
◆初の著書『半分論』に書かれていたこと
そんなすごいやつなのに、なぜか漂ってしまうB級感のようなもの。
前述した「スターオーラよりも気さくでおもろいお兄ちゃん」の空気感があるのは、村上の中に存在する“気恥ずかしさのようなもの”のせいかもしれない。
それは、今年出版された初の著書『半分論』(幻冬舎)にも現れているようにも感じられる。
本書は小説でもなければ自叙伝でもない、「あえて言うならば、僭越ながら僕なりの哲学書とさせて頂けたらと思います」(出版コメントより)と位置付ける。
自身の経験、挫折や葛藤、それらを示しながら、決して上から語らない。ゴリゴリのアイドルでなく、もちろんお笑い芸人でもない。
そんな自身の立ち位置をよく把握している、彼なりの謙虚さも詰め込まれているように感じられる。
それは、「様々な変化が著しい時代だからこそ、どんな状況にも活用出来る考え方の羅列になっております」(同)という考えに基づいたもので、大変な時代だからこそ、長い年月のさまざまな波を柔軟に乗り越えてきた、STARTO社の長い歴史の中でいそうでいない独自性を持った存在だからこそ語れる「村上信五的なもの」がそこにある。
◆「考える必要がない存在」であるすごさ
深く考えたことがなかったということは、前述したように彼が長いキャリアの中でなんだかんだ柔軟に、そしてそれをごく自然に波を乗り越えてきたから。
「ジャニーズなのに」というよりも「ジャニーズだから」ということすら気にせず、つまりそういう意味で考える必要がないような、あまりにも自然体での空気を醸し出していたから。そういうことなのかもしれない。
深く考えたことがない村上信五のことを考えてみたら、そのすごさ、唯一無二さを実感してしまった。
感心するとともに、怒られそうだがどこかくやしいなという気もする。それに対して、
「そんなたいそうなもんでもないやろ」
そんなふうに返されるような気もする。自分もそう思う。それが全然失礼なことと感じない。それこそが、村上信五という存在が放つ魅力だといえるだろう。
<文/太田サトル>
【太田サトル】
ライター・編集・インタビュアー・アイドルウォッチャー(男女とも)。ウェブや雑誌などでエンタメ系記事やインタビューなどを主に執筆。