仲代達矢さん=2022年8月、東京都千代田区 戦争が終わり、米国やフランスからたくさんの映画が入ってきた。ジョン・ウェインやゲーリー・クーパー、マーロン・ブランド。憧れの俳優たちの出演作を、食事を削って年間300本もむさぼるように見た。そんな青年期の経験が、仲代達矢さんのその後の人生を決定付けた。
映画、演劇の全盛期に俳優となり、「黒澤明、小林正樹、千田是也(俳優、演出家)ら数々の巨匠と出会えたことが財産になった」としみじみ語った。そうした幸運をかみしめるばかりでなく、「技を若者たちがもっと高めていけば、きっと劇場にお客さんが来てくださる」と常々、次世代の俳優に希望のまなざしを向けていた。
少年時代を戦時下の東京で過ごし、激しい空襲を体験した。「鬼畜米英」を叫んでいた大人たちが一夜にして親米派に転向する姿も目の当たりにした。そんな原体験から、政治の動向に常にアンテナを張り、「空襲から逃げ回った私からすれば、今の政治家は『戦争を知らない子どもたち』。自分が引退する時は、最後に大反戦劇を作ってから死んでいきたい」と切なる思いを口にした。
妻の宮崎恭子さんと設立した「無名塾」。実子のない仲代さんにとって、塾生たちは家族同然の存在だった。「もし無名塾をやっていなかったら、私は孤独な老人。朝7時ごろに、下に若いのが集まってきてわいわい騒いでいるのが聞こえてくると、本当に良かったと思う」。俳優の卵たちについて語る仲代さんの表情は、本当にうれしそうだった。