
※本記事は『果てしなきスカーレット』の内容に触れる部分があります。未鑑賞・未読の方はご注意ください。
『竜とそばかすの姫』(2021年)から4年ぶりとなる細田守監督のアニメ映画『果てしなきスカーレット』が11月21日に公開。父王の復讐を願うスカーレットという王女の物語は、少年少女の青春や家族の大切さを描いてきた細田作品にあって異彩を放つ。なにが描かれている映画なのか。細田監督自身が角川文庫と角川つばさ文庫から刊行した原作小説にはその全容が描かれていて、映画を観る前にストーリーや言いたいことを理解しておいたり、逆に観た後で何を言おうとしていたのかを振り返ったりできる。
【画像】いわゆる2Dアニメーション映像だった『サマーウォーズ』
荒涼とした大地を歩きながら「絶対に探し出して仇を討つ」と口にする女性がいる。ただし、歩いている場所は現実にありそうな荒野や砂漠ではない。巨大なドラゴンが空を往き、大地には様々な時代の槍や銛などの武器が刺さっている異世界だ。
「死者の国」。スカーレットという名の女性は、小説に「憎き仇への復讐に失敗して、死んだ」と書かれているように、父のアムレット王を死に追いやった叔父のクローディアスに復讐しようとして果たせず、逆に毒殺されそこに追いやられた。
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『果てしなきスカーレット』という作品は、それでも父の仇を討つことをあきらめず、「死者の国」のどこかにいるらしいクローディアスを目指すスカーレットを巡って、さまざまな人物たちが関わっていくストーリーが繰り広げられる。
中世風だったりファンタジー調だったりする世界は、これまで細田監督が手がけてきたアニメ映画にはなかったものだ。『時をかける少女』(2006年)は筒井康隆のジュブナイル小説を原作に、少女が少年と出会い恋心を育む青春ストーリーだった。『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)は、狼男だった夫に死なれた女性が、娘と息子を懸命に育てようとする家族劇だった。
前作の『竜とそばかすの姫』は、心に傷を負った少女がネット空間で歌う自由を手に入れ、同じようにネット空間に居場所を求める少年と交流する物語から、家族について考えさせる作品だった。『果てしなきスカーレット』は、それらとはまるで違っている。まず歴史ものだ。16世紀末のデンマークであることが映画では示される。小説版にはさらに詳しい背景事情が記されている。
スカーレットや父王のアムレットは、エーレスンド海峡を臨むデンマークのエルノシア城に暮らしていて、1523年に独立してから勢力を広げようとしてきたスウェーデンへの対応に追われている。アムレット王は戦いではなく対話によって解決しようとしていたが、弟のクローディアスは戦争によって周辺諸国を支配するべきだと訴えている。
やがてアムレット王は、権力欲に取り憑かれたクローディアスによって反逆者として死に追いやられる。スカーレットが復讐心を燃やす原因となった事態だ。小説版からはさらに、アムレット王の王妃のガートルードがスカーレットにとっては義母で、スカーレットが王位を継承すれば自分は権力の外に追いやられると考え、クローディアスに味方したことを読み取れる。
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『果てしなきスカーレット』の物語は、その結果として「死の国」で目覚め、復讐心に燃えていたスカーレットが、ある人物と出会うことで、憎い仇を殺すこと以外の道の存在について問われ、考えるものとなっていて映画の観客であり小説の読者を揺さぶる。その人物が聖だ。現代の渋谷で出動中になぜか「死者の国」に来てしまったらしい。映画では、岡田将生が声を演じている男で、自分を看護師だと言って荒野で死にかけていたスカーレットを治療し、そのままスカーレットの旅についていく。
スカーレットは、クローディアスの指示で襲ってくる刺客たちと戦い、すでに死んでいる者たちを「虚無」に変えようとする。これに聖が口を挟む。看護師として人を助ける仕事をしてきたからであり、現代の日本という殺人が認められていない場所から来たこともあるからだろう。
スカーレットが過ごしてきた中世ヨーロッパの基準と現代日本の基準がぶつかり合う形。殺さなければ殺されることが当たり前の世界に生きてきたスカーレットには、聖の平和主義で博愛主義は「いい子ちゃん」とした思えなかっただろう。戦乱の絶えない現代でもそれは通じないと言う人も少なくない。
もっとも、聖が旅の途中で出会うキャラバンを組んで移動しながら暮らしている人たちと意気投合する様を横目で見るうちに、「復讐」しか頭になかったスカーレットの心に揺らぎのようなものが生じてくる。予告編にも出てくる、渋谷の街で現代の服装で聖と踊る自分の姿を夢に見たスカーレットは、「復讐」に凝り固まるだけではない別の生き方があったのではないかと思うようになる。
『果てしなきスカーレット』は、そうした展開を通して、現代にも存在する憎しみに取り憑かれ、暴力だけが解決手段だと思いたがる雰囲気に挑もうとした映画なのかもしれない。シェイクスピアの戯曲『ハムレット』で、王子のハムレットが父王の仇を取るべきか否かを悩んだように。
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クローディアスやガートルード、ポローニアスにレアティーズといった登場人物たちの名前から、『果てしなきスカーレット』が『ハムレット』を下敷きにしていることは明白だ。細田監督自身も、映画のパンフレットで「復讐劇の元祖として思い浮かんだのが、シェイクスピアの『ハムレット』だったんです」と話している。スカーレットは、父王の復讐を果たそうともがく王子ハムレットと対比される存在ということになる。
ただし、シェイクスピアがハムレットを当初、復讐することに逡巡させて「憂鬱」へと至らせたのとは違って、細田監督はスカーレットを最初から「復讐」だけに凝り固まった存在として登場させた。ハムレットはやがて運命に従うかのように父の復讐に向かう。復讐心という熱情なり敵討ちという因習に逆らえない難しさがそこから漂うが、スカーレットは反対に、現代から来た聖の理性に触れて自分を変化させていく。
シェイクスピアが悲劇として描いた、400年前に理性が熱情に敗れる様を警鐘として受け入れ、理性が勝る世界が生まれたかというと、相変わらず情緒的な雰囲気に押し流されて幾つもの悲劇を招いている。そこに改めて『ハムレット』を持ち出し、悲劇に至らない道はあるのかと世界に問いかけたい。そんな細田監督の思いから、『果てしなきスカーレット』は生まれたのかもしれない。『時をかける少女』で千昭が真琴に「未来で待ってる」と言って、未来に希望を繋げようとしたように。
『果てしなきスカーレット』は、映像の面でも過去の細田監督作品とまるで違って、3DCGを使いキャラの造形も服装もリアルさを高めたものとなっている。観れば地獄とも煉獄とも言えそうな「死者の国」で、スカーレットたちが味わう苛烈さが身に迫ってくる。無数の軍勢や群衆が動き回って戦いを繰り広げるシーンの迫力や、巨大な竜が空を行く恐ろしさは、巨大なスクリーンで観てこそ味わえるものだと言って良い。そして観れば愚直なまでの愛の尊さを感じ取れる。
『果てしなきスカーレット』はそんな作品だ。
(文=タニグチリウイチ)
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