
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち16:畑山隆則
異能のプロボクサーだった。パンチや技術、スタミナ、タフネスに加え、戦う者としてその知力にも優れていた。展開を読み、勝負どころで発揮する力はむろん、対戦者を分析し、対応する戦法を十分に整えて実地の試合に持ち込んだ。そして、この男のプロフェッショナリズムは、それだけではない。自分自身の存在感を徹底して高める術も知っていた。畑山隆則は、だからこそ、偉大な試合をさらに盛り立てることができたし、自身のボクサーとしての人気、評価を最大値にまで高めることもできた。(文中敬称略)
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【世紀の一戦、空手の巨人は「畑山が勝つ」と語った】
何ごとにも限らず、より正解に近い観測を、現場近くにいない人の口から聞くことはままある。あの時もそうだった。2階級制覇を達成したばかりのチャンピオンと、3度の世界挑戦に敗れながら、その剛毅と豪打で強烈な個性を放っていた挑戦者。その両雄によるWBA世界ライト級タイトルマッチ、畑山隆則対坂本博之(角海老宝石)戦まであと数日、世間が大きく盛り上がっていたころである。
「畑山のほうが、何をやるにしても一歩早いんじゃないのかな。打つときでも、守るときでも。始動が少し早いように感じるんだよね」
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展開のあれやこれやをグルグルと思い浮かべ、どうしても解を得られていなかった私は、この言葉にぎくりとした。私自身も畑山有利に見えながらも、具体的な言葉にできていなかったのだ。
発言の主は、大沢昇という。極真空手のレジェンドでキックボクシング初期の大スターでもある。競技を離れたあと、東京・巣鴨にあった"やっちゃ場"(青物市場)近くで『大沢食堂』を開いていた(現在は閉店)。口や舌がしびれきってしまうほどに辛い『カレー辛口』が評判で、格闘家、熱心なファンは、これを修行の一環でもあるように息も絶え絶え、汗だくになって食す。料金を払い、外に出ると、再び店内に向けて深々と一礼して帰路につく。そういう人物だった。
自身も修行としてプロボクサーとして戦ったこともあるのだが、ずぶの素人と謙遜しつつ、ボクシングの話となると、専門誌記者でさえ、胸にずきんと響くひと言がもらえていた。
2000年10月11日、横浜アリーナの戦いは予想どおりの激しい打撃戦になった。そのすべての局面で打ち勝ったのは畑山だった。10ラウンド開始早々、畑山の左フックからの右ストレートで、坂本はゆっくりと崩れ落ち、レフェリーはカウントを開始することなく、ストップをコールした。記録上はTKOになるが、完璧なノックアウトだった。その時、坂本の状態を心配しながら、大沢の言葉を思い出していた。
「何もかも畑山が早い」
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その言葉どおりの展開があって、もたらされた鮮やかすぎるエンディングだった。
【それもプロの仕事。懸命に自分をアピールできる環境を探した】
畑山が最初に目指したのは、プロ野球選手だったという。中学生で球速130kmを超える剛球投手で、青森県の強豪・青森山田高校に体育推薦で入学した。しかし、野球部とそりが合わず、ほどなく退部し、やがて高校も退学する。次に目指したのがプロボクシングだった。ひとり上京し、新聞配達をしながら、最初は豊島区目白にあった名門・ヨネクラジムで練習した。やがて京浜川崎ジムに移り、このジムから17歳の時にプロデビューした(のちに横浜光ジムに移籍)。
最初から、光るボクサーだった。不敗のまま、世界チャンピオンの登竜門とも呼ばれる新人王戦を勝ち上がり、東日本、大阪で開催された全日本とも決勝戦はKO・TKO勝利で優勝を飾っている。東日本新人王決勝戦からスタートした連続KOは11にまで伸ばした。その頃には次世代エース候補の筆頭とも目されるようになっていた。
注目カードには、とりわけ強かった。戦前、拳闘の神様に等しかったピストン堀口(恒男)の孫で、アマチュア経験豊富な堀口昌彰(堀口)には強烈な連打でまさに押しつぶすようにTKO勝ち。1996年には圧倒的な強さのまま、東洋太平洋王座を獲得。98年には日本タイトルを6連続KO防衛していた美男のKOスター、コウジ有沢(草加有沢)との"史上最大の日本タイトルマッチ"に9ラウンドTKO勝ち。激闘ながらも、内容的には畑山が圧倒していた。
その前年に引き分けでWBA世界スーパーフェザー級王座を取り逃していたが、有沢戦から6カ月後、チャンピオンの崔龍洙(チェ・ヨンス、韓国)との再戦をクロスファイトの末に競り勝ち、ついに世界一になった。
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どこまでも好戦的で、速く、鋭いパンチとともに攻めまくる。その戦い方は魅力的だった。さらに積極的に自分をアピールした。タレントの片岡鶴太郎をマネージャーにつけ、世界戦前でも深夜のバラエティ番組に生出演し、自分の試合を前宣伝したこともあった。
しかし、世界王者になったころから、観客動員にいまひとつ勢いがなくなった。派手な演出込みで人気を集めるK−1に押され、プロボクシングは時代のトレンドではなくなっていた。また、畑山の試合自体も精彩を欠き始めた。厳しい減量苦が伝えられた。
初防衛戦はダウンを喫しながらも引き分け。続くラクバ・シン(モンゴル)戦、5ラウンド、ワンツーをまともにもらい、痛烈なダウンを食らう。立っても意識朦朧の畑山に戦いを続行させたのはあまりにも酷だった。決定的なブローをダース単位で浴び、やっとレフェリーストップに救われた。
初黒星(25戦)、23歳の若さにもかかわらず、畑山は引退を発表した。
【世界王座復帰のリングで坂本との対戦を告知】
再起に向けて動き出したのは、シン戦の敗北から半年も経っていなかったころだったという。のちに中谷潤人(M.T)をモンスター級に育て上げるルディ・エルナンデスを新たなトレーナーにつけ、ロサンゼルスで練習した。そして2000年春、坂本が2度のダウンを奪いながら負傷によるTKOでWBA世界ライト級チャンピオン、ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)に敗れると、畑山は復活を宣言。同年6月、復帰戦がいきなり世界戦となった畑山はこのセラノをTKOに打ち破り、2階級制覇を達成する。そのリング上だった。
「次は坂本選手とやります」
この瞬間から、畑山の人気は沸騰した。やがて坂本との対決が正式に発表されると、コウジ有沢戦と同じように、日本ボクシング史上最大のライバル戦と呼ばれるようになった。時は1990年代を席巻した辰吉丈一郎(大阪帝拳)のブームが行き過ぎようとしていた。干からびかけたボクシング人気に、畑山の手で新しい勢いがもたらされたのは疑いようもない真実である。
2度目の世界王者の時代もそんなに長くはなかった。2001年2月、日本タイトルの歴代最多記録となる22度防衛を誇るリック吉村(石川)と引き分け。5カ月後、さいたまスーパーアリーナに2万人の観客を集めて行なったジュリアン・ロルシー(フランス)との対戦に判定負けを喫し、無冠になった。翌年1月、正式に引退を発表している。
25歳、今のボクサーならまだまだ成長が見込める年齢である。だが、やり遂げた仕事は大きい。失意から復活し、日本のボクシングの命脈をつないだのだ。堅実な決意だったと思う。
●Profile
はたけやま・たかのり/1975年7月28日生まれ、青森県青森市出身。18歳の誕生日を迎える1カ月前の1993年6月にプロデビュー。徹底的な好戦スタイルで連勝を重ね、スターダムに駆け上がった。96年には東洋太平洋スーパーフェザー級タイトルを獲得。98年には大きな注目を集めたコウジ有沢(草加有沢)との日本タイトル戦にTKO勝ち。同年、しぶとく重厚なアタックに定評のあった崔龍洙(韓国)を2−0の判定に破ってWBA世界同級王者に。2度目の防衛戦に敗れて1度は引退するものの、2000年に復活。WBA世界ライト級チャンピオンとなり、2階級制覇に成功した。2002年に引退。身長173cmの右ボクサーファイター。29戦24勝(19KO)2敗3分。現在は竹原慎二&畑山隆則ジムのマネージャーを務める。
