
Why JAPAN? 私が日本でプレーする理由
横浜F・マリノス ジャン・クルード インタビュー 第1回
今のJリーグでは、さまざまな国からやってきた多くの外国籍選手がプレーしている。彼らはなぜ、日本を選んだのか。そしてこの国で暮らしてみて、ピッチの内外でどんなことを感じているのか。今回は横浜F・マリノスのトーゴ代表MFジャン・クルードに、日本にたどり着いた経緯や、この国の印象を聞いた。
【トーゴの首都ロメ出身、7人きょうだいの5番目】
横浜F・マリノスではこれまで、多様な外国籍選手たちが活躍してきた。
Jリーグ草創期はアルゼンチン人選手が中心で、2000年代に入ってからは数々のブラジル人選手たちがクラブの歴史に名を刻んでいる。大きく流れが変わったのは、2010年代後半だ。
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アンジェ・ポステコグルー監督が就任した2018年以降を見てみると、ブラジル人や韓国人のほか、オーストラリアや北マケドニア、セルビア、カメルーン、ポルトガル、タイなど世界各国から戦力を補強してきた。
そして今年はブラジル、コロンビア、イスラエル、ベルギー、オーストラリア、トーゴとそれぞれの異なる国籍の選手たちが切磋琢磨し、シーズン前半はベルギー生まれのインドネシア代表DFサンディ・ウォルシュも在籍するなど、クラブの歴史上最も多国籍なチームになっている。
そのなかでも、Jリーグ史上初のトーゴ人選手として2024年7月にF・マリノスの一員となったジャン・クルードは、ひときわミステリアスな経歴の持ち主で、まだ一般に知られていないことがたくさんあるはずだ。
これまでにどんなキャリアを送ってきたのか――。ジャンの謎に包まれた人生を紐解くべく、インタビューに臨んだ。
コジョ・ジャン・クルード・アジアンベは、2003年12月14日にトーゴの首都ロメで生まれた。
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アジアンベ家はトーゴとガーナの血が混ざった大家族だ。ジャンは7人きょうだいの5番目。兄と姉がふたりずつ、下には弟がふたりいるが、末っ子はすでに亡くなっているという。ちなみに現在、名古屋グランパスからJ3のFC大阪へ期限付き移籍中のアヴェレーテ・イーブスは母方のいとこで、ジャンがウクライナでプレーしていた時期を除いてずっと同じ国でサッカーをしてきた。
【いつしかサッカーに夢中に】
父は元サッカー選手だった。ジャンは「お父さんが現役選手としてプレーしている姿は見たことがない」そうだが、幼少期には「家にはボールがあって、シュートの仕方やパスの蹴り方を教わった」と言う。しかし、最愛の父はジャンが10歳の時に他界してしまった。
それをきっかけに一家は困窮した。
「お父さんが生きていた頃は、彼が親族を支えてくれていたけれど、亡くなってからは本当に大変だった。何よりも辛かったのは、頼れる身内があまりいなかったことだ。大家族ではあったけれど、僕はどこかでずっと孤独を感じていた。
サッカーを始めたばかりの頃、応援してくれる人や助けてくれる人がまったくいなかったのが、孤独を感じていた最大の理由だ。身近に『がんばれ!』とか、『君ならできる!』とか、『自分を信じて』とか言ってサポートしてくれる人はおらず、家で座っているとひとりぼっちのように感じてすごく寂しかった」
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実はジャンが本格的にサッカーを始めたのは、11歳と遅い。幼少期からサッカーボールに親しみ、遊びでボールを蹴ってはいたが、父の死によって家庭環境が激変したことなども影響して、競技に打ち込める状態ではなかったという。
それでもいつしかサッカーに「夢中になっていた」。ボールを蹴っていれば、ほかのことは忘れられる。孤独に打ち勝ち、自分の力で未来を切り開いていく力をサッカーから得ていた。
「11歳の時、遊んでいて足を骨折したんだ。それでしばらく入院することになって、もちろんサッカーはできず、学校の勉強に集中しなければならなかった。1カ月くらいして足が治ってからはすぐにプレーできるようになったわけだけど、ちゃんと治る前も松葉杖をつきながらボールを蹴っていたくらい熱中していたよ」
転機となったのは2018年9月にニジェールで行われたアフリカU-17ネーションズカップ(U-17アフリカ選手権)の予選だった。当時まだ14歳だったジャンは、いとこのイーブスと共にU-17トーゴ代表としてニジェールやガーナと対戦し、国際舞台に立った。
【「学校に通う時間はない。サッカーに専念したい」】
「それまでは、サッカーで生きていく未来があるなんて考えたこともなかった。周囲の大人からのサポートはほとんどなく、自分で自分を励ましながらがんばるしかなかったから。でもニジェールから帰った時に、心からサッカーのキャリアに集中したいと思った。それで家族に『もう学校に通っている時間はない。サッカーに専念したい』と伝えたんだ」
年上の選手もいるU-17代表に14歳で選ばれていたジャンの才能には、注目が集まった。U-17アフリカ選手権予選の後、スカウトから声をかけられたジャンは、家族のルーツもある隣国のガーナに渡って現地のアカデミーで約8カ月間過ごした。
この頃、もうひとつ大きなチャンスが舞い込んでいた。ジャンは「実はイタリアに行けるかもしれなかったんだ」と明かす。ヨーロッパでのプレーは夢のひとつでもあったが、しかし......。
「イタリアへ渡る船に乗る予定だったけれど、そのためにはガーナのパスポートを取得するのが条件になっていた。もしパスポートを手に入れられれば、将来ガーナ代表になることも可能だった。でも、家族がガーナ人になることには反対したので、ヨーロッパ行きは断念せざるを得なかった」
トーゴに戻って燻っていた潜在能力の塊には、すぐ別の国へ渡るチャンスが提示された。それがアラブ首長国連邦(UAE)だった。ジャンは続ける。
「もともとは別の選手が行くはずだったけれど、その選手が大きなケガをしてサッカーをやめてしまった。すると調子がよかった僕が代わりに選ばれ、UAEへ行くことになった」
16歳になる年にジャンといとこのイーブスは、UAE最大の都市ドバイへ飛んだ。ところが、待っていたのは苦難の連続だった。
「約束されていたことと現実がまったく違った」とジャンは振り返る。「何かを成し遂げるには誰かを頼ってはいけない」と懸命にもがいたが、イーブスはひどく落ち込んだという。
それでもふたりは力を合わせて難局を乗り越え、自分たちの手で本物のチャンスを手繰り寄せた。
「ドバイには知り合いなんてひとりもいなかったから、本当に苦労したよ。最初から契約するクラブが決まっていたわけではなく、うまい話をチラつかされてドバイへ行くことになった。でも、僕といとこはあきらめずに自分たちを信じて努力を続けたんだ。
僕はあるクラブのトライアルに3回参加し、試合にも出て、正式な契約の話までしていた。当時はドバイに本拠地がある大きなクラブが3つか4つ、僕に関心を示していたんだ。ところが、最終的にはすべてがダメになってしまった」
だが、サッカーの神様はまだジャンを見捨てていなかった。
(つづく)
第2回 >>> 戦火のウクライナでプレーしたジャン・クルード「人生でもっともクレイジーな経験だった」
ジャン・クルード Jean Claude
2003年12月14日生まれ、トーゴ・ロメ出身。14歳で出場したU-17アフリカ・ネーションズカップで注目され、UAEのアル・ナスルのユースに引き抜かれ、そこでプロに。帰化を断ったことでファーストチームに居場所を失い、2023年9月からウクライナのゾリャ・ルハンシクへ期限付き移籍。翌2024年7月に横浜F・マリノスに完全移籍で加入し、驚異的なスピードや鋭い寄せで中盤を引き締めている。
