
水上善雄インタビュー(後編)
ロッテ、広島、ダイエーで17年間プレーした水上善雄氏。現役時代、当時では珍しいロングヘアがトレードマークの遊撃手で、数々の名勝負を演じてきた。そんな水上氏に今でも印象に残っているシーン、対戦したなかで驚愕した投手など、当時の思い出について語ってもらった。
【伝説の一戦でも特別な感情はなし】
── 1988年10月19日の近鉄対ロッテのダブルヘッダー。いわゆる「10・19」で水上さんは1試合目にロッテの9番・サードでスタメン出場。2試合目は途中出場されました。あの試合の思い出は?
水上 特別にすごい印象はありませんでした。1試合目で勝ち越しのホームインを決めた鈴木貴久選手と中西太コーチが、グラウンドに倒れ込んで大喜びしているのを見て、ほかの選手たちは「2試合目、絶対に負けられないと思った!」などと言っていましたが、私はいつもどおりでした。あくまで"130分の1"(当時はシーズン130試合制)の試合にすぎず、2試合目も出場したら自分のすべきことをやるだけだと考えていました。
── 失礼ながら、ロッテは最下位に決定しており、多くのファンが「常勝・西武ではなく、近鉄に勝たせてあげたい」という雰囲気でした。
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水上 ただ、「近鉄は頑張ってここまで来たんだから、オレたちロッテは手を抜かないし、勝って自分たちの力で優勝してみなよ」という気持ちはありました。だから、高沢(秀昭)にしても気持ちが入っていて、2試合目に阿波野秀幸投手から同点本塁打を打てたんじゃないですかね。
── ロッテの佐藤健一選手が死球を受けてうずくまった際、近鉄の仰木彬監督が「痛かったら代われば」と言い放ったことが、ロッテに火をつけたと言われています。また、阿波野投手のけん制が高く浮き、二塁へ入った大石大二郎選手が着地の際に走者を押してしまう形でアウトとなった場面では、有藤通世監督が猛抗議しました。
水上 仰木監督が試合を長引かせないために言ったことも十分理解できますし、有藤監督が自軍の選手を守るために強く抗議したのも当然のことだと思います。
── 8回裏、高沢選手の同点ホームランでロッテが追いついた直後の9回表。近鉄は大石選手を二塁に置き、新井宏昌選手が三塁線を破るかという痛烈な打球を放ち、勝ち越しかと思われましたが、水上さんが飛び込んで捕球しアウトにしました。
水上 私としては、ふつうに飛び込んで捕って、送球してアウトになったというだけです。実況アナウンサーが「ジス・イズ・プロ野球!」と絶叫してくれたそうです。でも一塁送球の際、わずかにショートバウンドしてしまい、私は恥ずかしかった。なぜなら、プロはアマチュアにはできないプレーを見せるものだと思っていたからです。
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── グラウンドでは、さまざまなドラマがあったですね。
水上 そのプレーにしても、今のようにリクエスト制度があったら「セーフかも」というタイミングでした。当時、私も31歳で少し送球が弱くなっていました。
── 結局試合は延長10回引き分けで、近鉄の優勝はなくなりました。
水上 あのシーズンの近鉄は強かったですよ。ただあのダブルヘッダーに関しては、完全に打ち負けると思っていたのに、ロッテ投手陣が踏ん張りました。「優勝するなら勝って決めろよ」と思っていただけに、試合後シャワーを浴びながら「近鉄はもうひと踏ん張りできなかったな」という思いはありました。
【髪の毛を伸ばした本当の理由】
── その後、水上さんは広島、ダイエー(現・ソフトバンク)でもプレーされ、92年シーズンを最後に引退されました。現役時代、印象に残っている投手を3人挙げてください。
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水上 右のアンダースローの山田久志さん(阪急)、左腕では鈴木啓示さん(近鉄)ですね。私と対戦した頃はふたりとも晩年でしたが、全盛期は150キロ近い球威と変化球のキレ、そして技術もあって、とてつもない勝ち星を上げてきた投手です。打席に立って対戦できるだけで光栄でした。
── もうひとりはどなたですか?
水上 同じロッテの村田兆治さんです。私が高校生だった1974年、ロッテとの日本シリーズで中日の4番のジーン・マーチンがベースよりずっと手前に落ちる球を空振りしたのを見て笑っていました。でもプロ入りしてから村田さんのフォークを見て、「こりゃ振るわ」と。
89年、尊敬する村田さんが山形で通算200勝を達成した試合に立ち会えたことは、今でも強く記憶に残っています。私は三塁を守っていたのですが、「全部、自分のところに打たせてください!」と心の中で叫んでいました。
── そういえばその頃、水上さんは長髪から"ライオン丸"と呼ばれていました。
水上 髪を伸ばし始めたきっかけは、ゲン担ぎでした。89年春のオープン戦で左頬に死球を受け、手術のために1カ月ほど入院したんです。その後、二軍でリハビリをしていたのですが、散髪に行く機会がなく髪が伸びてしまっていて......。ところが復帰してみると調子がよかったので、「これは縁起がいい」と思い、そのまま切らずに伸ばし続けたんです。
当時の私は、体制に反発する"ツッパリ"のようなところがあって、いま振り返ると「みっともないな」と恥ずかしくなる部分もあります。親会社のロッテは食品会社でしたし、金田正一監督からは「スポーツをする者が長髪なんて」と叱られました。でも、村田兆治さんは「絶対に切るなよ」と励ましてくれて......その言葉はいまでも懐かしく思い出します。
── 先程、名前を挙げられた3人は、当時のいわゆるパ・リーグ6大エース(ほかに西武・東尾修、日本ハム・高橋直樹、南海・山内新一)で、速球派だったわけですね。
水上 セ・リーグでは、オープン戦で対戦した巨人の江川卓投手は速かったですよ。打ちにいく時、だいたい「1、2、3」でタイミングが合うのですが、江川さんだけは合わなかった。試しに「1、2」で振ったら、ホームランになっちゃいました(笑)。
── 江川さんのストレートはホップしていたと聞きます。
水上 9番打者の私には手を抜いて投げていました。4番の有藤さんとの対戦では、見るからに力を入れて投げていましたよ。
【ナンバーワン遊撃手は?】
── 同じ野手として、印象に残っている打者は?
水上 やっぱり落合(博満)さんですよ。次元が違います。今だったら、大谷翔平選手のような存在です。相手チームの打者が、試合前の落合さんの打撃練習を見に来ていました。本塁打だけを狙っていたら、王貞治さんの通算868本に迫っていたでしょうし、安打だけを狙っていたら打率4割に届いたのではないでしょうか。スイングスピードも速くて、ミートした時の破壊音を聞くと気持ちが悪くなるほどでした。
── ほかに印象に残っている打者はいますか。
水上 「左の天才」といえば、巨人の篠塚和典ですね。同い年で、銚子商(千葉)時代からよく知っています。体重は60キロそこそこの細身でしたが、腰をクルッと回転させて、木製バットでライトスタンドへ軽々と放り込んでいました。
イースタン・リーグではよく対戦しましたが、本当にいやらしいほど巧みな打者でした。流し打ちがうまいので三遊間に寄ると、投手の足元を鋭く抜いてくる。それで二遊間に寄ると、今度は三遊間へ絶妙に流し打つ。守備陣の位置取りを見ながら、自在に狙い打ちしていました。首位打者を2度獲得したのもうなずけます。
── 水上さんが見てきたなかで、一番うまい遊撃手は誰ですか?
水上 ロッテなどで活躍した小坂誠選手です。投手の頭上をゴロで越えるような打球でも、捕ってランニングスローではなく、正面に入って捕球しステップしてから投げるタイプでした。いわば、守備範囲に限界がない選手でした。西武時代の松井稼頭央は抜群の身体能力を生かしてとんでもないプレーを見せる一方で、簡単な打球をファンブルすることもありました。イメージとしては、小坂選手は安定しているベンツで、松井選手はフェラーリという感じですね。魅力はあるけど、故障の心配があるという意味で。
── 最後に、1990年にトレードで広島に移籍されますが、ロッテからは水上さんと高沢さん、広島からは高橋慶彦さん、白武佳久さん、杉本征使さんの複数トレードでした。その時はどんな心境だったのですか。
水上 家族で見ていたテレビのニュースで初めて知りました(笑)。そういう時代だったんですね。
水上善雄(みずかみ・よしお)/1957年8月9日生まれ。神奈川県出身。桐蔭学園高から75年のドラフトでロッテから3位指名を受け入団。79年から正遊撃手となり、80年から4年連続全試合出場を果たす。80年にダイヤモンドグラブ賞、87年にベストナインを受賞。90年に広島、91年にダイエーに移籍し、92年限りで現役を引退。引退後は日本ハム、ソフトバンクでコーチ、二軍監督を歴任。高校野球の指導者も務めた。現在はプロ野球評論家として活躍
