
水上善雄インタビュー(前編)
ロッテの名遊撃手としてならした水上善雄氏だが、名門・桐蔭学園で2年間は補欠。プロには興味もなく、夢は警察官になって白バイに乗ることだった。しかし、ある試合をきっかけに運命は大きく変わる。原辰徳に痛打された悔しさ、そしてスカウトの"偶然の目撃"を経て、プロ入りを果たすことになる。水上氏が語る、波乱に満ちた野球人生とは。
【神奈川大会で原辰徳から被弾】
── 水上さんは神奈川の名門・桐蔭学園出身ですが、高校時代はどんな選手でしたか。
水上 入部してから2年間は補欠でした。打撃投手要員で、木本芳雄監督には期待されていなかったと思います。毎日300〜400球ほど投げ、それ以外はグラウンドを走っていました。それで肩がよくなり、下半身も強化され、のちのプロ生活で生きたと思っています。
── 同学年には長内孝さん(元広島ほか)、2年下には渋井敬一さん(元ヤクルト)がいました。
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水上 私は遊撃手兼投手で、高校3年夏(1975年)の神奈川大会準々決勝で東海大相模と対戦しました。相手は2年生ながら原辰徳選手(元巨人)、津末英明選手(元日本ハムほか)、エース左腕の村中秀人選手など、有名な選手が揃っていました。
6回、4対5と1点ビハインドの場面で私がリリーフとして登板しましたが、原選手に2ランホームランを打たれるなど、敗れてしまいました。「あんな外角の球をホームランにするなんて、本当にすごいな」という印象が強く残っています。
── かつて水上さんは「プロ生活はおまけ」だと言っていましたが、その真意は?
水上 私はもともと警察官になって、白バイに乗るのが夢で、野球を続けるにしても大学か社会人へ進むつもりでした。プロ野球にはほとんど興味がなく、知っていたのは王貞治さんと長嶋茂雄さんくらい。ところが、あの東海大相模戦で状況が変わったんです。あの日、プロのスカウトたちが長内や1学年下の東海大相模の3選手を見に来ていたのですが、本来お目当てだった長内が5打数0安打に終わり、4打数4安打と活躍した私のことをチェックリストに書き込んでくれたんです。
── 75年のドラフトでロッテから3位指名。高卒の内野手では高評価です。
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水上 巨人、ヤクルト、中日が予想されていました。私はロッテのスカウトを一度も見たことがありませんでした。これはあとで聞いた裏話ですが、「他球団のスカウトから水上はいいよ」と聞いたから指名したそうなんです。当時は、夏の甲子園の中継で解説者が好選手だと言っていたから指名した、という話もあったみたいです。
【入団当時のロッテは投手王国】
── そんなアバウトな時代があったのですね。ちなみに、74年のドラフトでロッテは市立銚子の石毛宏典さん(のちに西武ほか)を6位で、75年のドラフトでは2位で新日本製鐵光の大町定夫(のちに阪神)さんを指名しましたが拒否されました。
水上 ただ当時のロッテは、74年に日本一になるなど強いチームでした。投手陣はスライダーの成田文男さん(通算175勝)、カーブの金田留広さん(同128勝)、シュートの木樽正明さん(同112勝)、フォークの村田兆治さん(同215勝)など一流の変化球を投げる投手が揃っており、さらに74年新人王の三井雅晴さんなど、まさに投手王国でした。
── 打者もすごかったですね。
水上 のちに通算2000安打を放つ山崎裕之さん、有藤通世さんがいて、さらに一塁にはジム・ラフィーバー、外野にも弘田澄男さんや得津高宏さんなど、すばらしい選手がたくさんいました。そのため、当時のロッテは補強にそれほど力を入れる必要がなかったのだと思います。
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── ロッテというチーム自体はいかがでしたか。
水上 移籍してきた江藤慎一さんや白仁天さんといった猛者たちが独身寮に住んでいて、その迫力はすさまじいものでした。当時のロッテの本拠地は、年間20〜30試合の仙台が中心ながら、神宮球場や後楽園球場をホームにすることもある"ジプシー球団"でした。川崎球場が本拠地になったのは78年からです。プロ入り後、近鉄やロッテの球団事情について「お金がない」という話を耳にすることも多く、「自分は入る世界を間違えてしまったのか......」と思ったこともあります(笑)。
── プロ4年目の79年に126試合、80年に130試合出場するなど、早い時期にレギュラーをつかみました。
水上 入団当時の監督は、「練習は走れ、走れ!」で有名な金田正一さんでした。しかし私は高校時代から走り込みを徹底していたので、高卒1年目から一軍で起用してもらえました。79年から監督になった山内一弘さんには、「その守備なら打率3割の価値がある」と評価していただきました。また、守備の基本を徹底的に教えてくれた河野旭輝コーチは、本当にすばらしいコーチでした。
【野村克也から学んだクセ盗み】
── 打撃はいかがでしたか。
水上 プロでは、ストレートしか打てない打者のことを将棋にたとえて「香車」と呼ぶのですが、当時の私はまさにそのタイプでした。そこで高畠康真コーチから「カーブやスライダーなどの変化球にヤマを張りなさい」とアドバイスを受けました。最初は単純な「ヤマ張り」でしたが、次第に状況に応じて「配球読み」へと進化していったのです。
── 「狙っていれば打てる」ということですね。
水上 しかも幸運なことに、78年の1シーズンだけ野村克也さんがロッテに移籍してきたんです。野村さんは、グラブをセットした時の利き手首の角度や筋の動きから、ストレートか変化球かを見抜いてしまうほどでした。ほかにも、投球動作のクセ、ワインドアップ時の腕の広がり方や、リリース時の口の開きなどから配球を読んでいました。
野村さんは、これらのヒントをドン・ブレイザーから得たそうです。いまではプロの世界では誰もが当たり前にやっている"クセ読み"ですが、当時の私はその最先端の技術を身近で学ぶことができたわけです。
── 78年は阪急(現・オリックス)の名遊撃手・大橋穣さん、79年は日本ハムの高代延博さんがダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞しましたが、80年は水上さんでした。
水上 ダイヤモンドグラブ賞を受賞したことで、プロとしての自信がつき、結婚もしました。7年連続受賞の大橋さんは超強肩でした。内外野の境目よりも2メートルほどうしろに下がって守り、そこから一塁へ大遠投できるほどです。いまの遊撃手はそこに守っていても、打った瞬間前に出てきますから、大橋さんの強肩とは意味合いが違います。
【打率3割超えで恐怖の9番打者に】
── 83年に打撃がよくなり、プロ野球人生唯一の打率3割(.302)をマークしました。
水上 監督だった山本一義さんから「一本足打法をやめて、すり足打法に変えてみなさい」とアドバイスを受けました。動きを小さくすることで、投球の軌道がより見えやすくなるというわけです。イチロー選手や大谷翔平選手もメジャーに渡ってからステップを小さくしていますが、考え方としては同じですね。さらに打球をすべて右方向へ打つ意識を持つようにしたところ、バットがスムーズに出るようになりました。
── 当時は落合博満さんやレロン・リーがいるなか、水上さんはまさに「恐怖の9番打者」でした。
水上 私より4歳上で、79年に入団してきた落合さんからは、「おまえもようやくヒットの打ち方がわかってきたな」と声をかけてもらいました。試合が終わると、打撃投手の立野清広さんと愛甲猛と私の3人でビデオを見ながら感想を述べ合っていました。落合さんはすぐ室内練習場に行って、打撃フォームをその日のうちにきっちり微調整していました。あまり軽々しく使いたくありませんが、「右の天才打者」ですね。
── 金田正一さん、山内一弘さん、山本一義さん、稲尾和久さん、有藤道世さん......。ロッテ時代に在任した監督たちへの思い出を聞かせてください。
水上 どの監督も個性が際立っていて、本当にいい監督ばかりでした。みなさんお世話になりましたが、とくに印象に残っているのは山内さんです。選手一人ひとりをよく見て把握し、気さくに声をかけながら采配を振るう。そんなイメージがあります
落合さんは「山内監督が言う内角打ちの打法は自分にはできないので、放っておいてください」と言っていましたが、結果的にはチームのなかでいちばん山内さんのアドバイスを体現していたように思います。投球の内側をしっかり叩くスイングをしていましたね。
つづく>>
水上善雄(みずかみ・よしお)/1957年8月9日生まれ。神奈川県出身。桐蔭学園高から75年のドラフトでロッテから3位指名を受け入団。79年から正遊撃手となり、80年から4年連続全試合出場を果たす。80年にダイヤモンドグラブ賞、87年にベストナインを受賞。90年に広島、91年にダイエーに移籍し、92年限りで現役を引退。引退後は日本ハム、ソフトバンクでコーチ、二軍監督を歴任。高校野球の指導者も務めた。現在はプロ野球評論家として活躍
