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世界からの評価が高まっている日本の漫画。2022年には欧米のグラフィックノベル市場において売上シェアの45.7%を占めるほどに至っている。しかし、その輝かしい世界の裏側では、多くの漫画家が心身を削りながら創作活動を行う、過酷な現実が存在する。
【画像を見る】マンガ家の負担を「AI」で減らすという「THE PEN」とは(7枚)
長時間労働、アシスタント不足、そして創作に集中することを阻む数々の制約。こうした根深い課題に対し、AI技術を用いてアプローチするのが、Visual Bankが開発を進めるAI補助ツール「THE PEN」だ。
THE PENは、一般的な画像生成AIとは一線を画すとうたう。漫画家一人一人の画風や癖、さらには言語化が難しい「暗黙知」までを学習し、作家本人に向けた専用のデータベースを構築。これにより、作家の個性を再現した高品質な作画支援を、権利侵害の懸念なく行うことを目指しているという。
この挑戦には、現代のクリエイターエコシステムをけん引するキーパーソンたちが集結している。AIとUI/UXデザインの専門家であるTHE GUILD代表の深津貴之氏と、『宇宙兄弟』などを手掛けた編集者でありコルク代表の佐渡島庸平氏が、取締役兼アドバイザリーとして参加。
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サービスはまだ一般公開されていないが、業界の注目を集めるTHE PENはどのような仕組みを構想しているのか。Visual Bankグループ代表の永井真之氏へのインタビューから、その詳細をひもといていこう。
永井真之
2012年に早稲田大学を卒業後、みずほ証券株式会社、ドイツ証券株式会社を経て、2016年にSMBC日興証券株式会社に入社。その後、同社ニューヨーク支店にてSMBC Nikko Securities Americaの一員に。約10年間のバンカー経験で国内外の企業成長・企業価値向上のための資金調達、IPO、M&Aを支援する。2022年4月、Visual Bank株式会社を設立。同年5月に株式会社アマナイメージズの全株式を株式会社アマナより取得し、株式会社アマナイメージズの取締役に就任。ビジュアル学習用データセット開発サービス『Qlean』の新規事業開発や、IP×AI事業の立上げを行う。2024年5月、Visual Bank株式会社代表取締役CEOに就任。
●クレイジーと評される日本の漫画制作環境
日本の漫画が世界的な評価を得ていることは、疑いの余地がない。しかし永井氏は、このクオリティーを支える制作環境にこそ、深刻な課題が潜んでいると指摘する。
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「海外のクリエイターから見ると、日本の漫画制作環境は『クレイジー』だとよく言われます。それは、信じられないという驚きと、どうやってこのスケジュールを回しているんだという疑問の両方を含んでいます」
日本の週刊誌は月あたり約70〜80ページを制作する一方、米国の月刊コミックは約20ページであり、制作体制も日本の作家がほぼ一人で全工程を管理するのに対し、米国では分業制が基本となっている。この過酷な環境が、漫画家を目指す才能に以下の「三つの壁」として立ちはだかっている、とある著名な編集者はいう。
・面白いストーリーを空想する力(創作力)
・想像した世界観を届けるための画力(表現力)
・週刊連載に耐えるための、精神的および肉体的な強さ
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「最初の二つを兼ね備えた人はたくさんいる。しかし、この三つ目のフィジカルとメンタルの強さが加わることで、スター作家になれる母数が一気に減ってしまう。これが産業課題として強く意識されています」と永井氏は語る。
この課題は、腰痛や腱鞘炎といった「健康・体力の制約」、アシスタント費用は基本的に作家の自己負担である「金銭の制約」、そして締め切りに追われる「時間の制約」として漫画家を苦しめている。
●なぜ既存のAIはプロの現場で「使えない」のか
このような状況だからこそ、警戒感も伴いながらではあるが、AI技術の活用が現場から期待されてきたのは自然な流れだった。しかし、社会実装が大きく進んでこなかった背景には、プロの現場が越えられない「品質」と「権利」という二つの大きなハードルがあった。
1つ目は、品質の問題だ。既存の画像生成AIの多くは、特定の作家の画風を忠実に再現することが難しい。
「一般的な生成AIにキャラクターの絵を指示すると、いわゆる『AI顔』、私たちの間では『マスピ(マスターピース)顔』と呼んでいるものが出力されがちです。デッサンは整っているかもしれませんが、そこには作家性やキャラクターの個性が欠落しています」
プロの漫画家にとって、自身の作品は唯一無二の画風そのものであり、単に「うまい絵」では代替できない。この「作家性」というラストワンマイルを越えられないことが、商用利用における最大の障壁となっていた。
2つ目のハードルは、権利と倫理観の問題だ。多くの生成AIは、インターネット上から膨大なデータを収集して学習しているが、その中には著作権者の許可を得ていない画像も含まれている可能性がある。
クリエイターにとって、「知らないうちに他人の著作権を侵害してしまうのではないか」という懸念は根強い。私的利用の範囲を超えて、意図しない生成物が拡散され、IP価値が不当に毀損される懸念がある。
永井氏は、この問題を二つの側面から捉える。
「1つは法的な解釈です。著作権侵害はもちろん許されません。そしてもう1つが、法的には問題なくても、クリエイターの方々が気持ちよく使えるサービスの枠組みとは何か、というクリエイター倫理の側面です。この両方をクリアしなければ、本当の意味でプロの道具にはなれないと考えています」
●「作家性」の再現をどう目指すのか
この二つの大きなハードルを越えるために、THE PENが採用するのが、作家一人一人に最適化された「創作技術のデータベース化」というアプローチだ。
その核心は、データの管理方法にある。THE PENは、作家個人の絵柄を再現するための「著作性データセット」と、作画の基礎となる一般的な概念を学習した「産業データセット」を分離。両者の間には「データ・ウォール」と呼ばれる壁を設け、作家Aの著作性データが作家Bの作画支援に利用されたり、産業データセットと不必要に混ざったりすることがない仕組みを構築しているという。
この「著作性データセット」は、単に漫画の完成茣蓙を学習させるのではない。作家の「画風の傾向」「癖」「暗黙知」といった、言語化されにくい領域まで踏み込み、解釈し、構築していくプロセスだという。この、作家性の根幹に関わる言語化と解釈のプロセスにおいて、長年ビジュアルコンテンツを選び抜いてきたアマナイメージズのスタッフが持つ「審美眼」が生かされている。
具体的には、彼らがストックフォト事業で培ってきたノウハウが直結している。例えば「『もふもふして可愛いイメージをいっぱい』といった抽象的な顧客リクエストを言語解釈して、高品質なキュレーション実務に落とし込む力」や、膨大な取扱い作品の中から「最も作家らしさを体現する一枚」を選び抜いてきた「目利き」の技術だ。
これらの経験が、THE PENのデータベース構築において、「作家の“もっとこう/ちょっと違う”という改善点を丁寧に言語化する力」や、「その“作家らしさ”を体現するデータを的確に選別・共作する力」として生かされている。これはAI開発における「教師あり学習」に他ならないが、その「教師」役を担うスタッフの経験値とスキルの高さこそが、作家の個性を再現するデータベースの品質を支える鍵となっている。
ある60代のベテラン漫画家は、このアプローチを採用したTHE PENにより隔週連載約20ページの執筆時間が従来の約4分の1に短縮されたという。また別の作家は、「AIがバランス良く安定した線を出してくれる。そこから、いかに外すか、崩すか、みたいな作業で、より場面や感情にあった演出表現に力を入れられる」ようになったという。
さらに別の作家は「AIがバランスの良い絵をアシストしてくれるので、そのバランスを崩したり、キャラらしさ、愛嬌をいれる演出作業、自分らしさを追求する作業に時間を掛けられて、より自身の作画アイデンティティーが深まっている感覚」を覚えるとコメント。単なる効率化だけでなく、作家性の追求にもつながっている様子がうかがえる。
●THE PENを用いた漫画制作フロー
THE PENを用いた制作は、実際には以下の流れで進められる。
1. 創作技術のデータベース化:まず、漫画家が自身の「キャラ原画5点」や過去の成果物をTHE PENに共有する。THE PENはこれを基に、作家個別のデータベースを構築する。
2. 著作性モデルの開発:構築したデータベースから、画風の傾向や特長を組み込んだ、作家専用のクローズドな「著作性モデル」を開発する。
3. ネーム提出:漫画家は、通常通りラフネーム(下書き)を作成し、THE PENに提出する。
4. PEN editorによる作画支援:THE PENは提出されたネームを基に、専用の著作性モデルを用いて作画を行い、作家にデータを戻す。
5. 仕上げ:作家は、AIによって作画されたデータを基に、自身の筆で最終的な仕上げや演出を加える。
6. 完成・入稿:完成した原稿を入稿する。
このフローの重要な点は、ステップ5の「仕上げ」で作家が加えた修正点がフィードバックされ、作家個人の「著作性モデル」が持続的に進化していくことだ。作家と共に成長するAIアシスタントと言う永井氏の表現は大げさなものではないことが、このワークフローからは見て取れる。
●THE PENはパートナーシップ型のビジネスモデルを目指す
THE PENが構想するビジネスモデルも、従来のソフトウェア提供とは一線を画したものだ。永井氏は作家と共に作品を創り上げる「共作」のパートナーとしての関係性を目指すとしている。
「われわれが目指すのは、作家さんにとっての『オンデマンド・スタジオ』のような存在です。基本的には、作品が生み出す収益(例えば単行本の印税など)の中から、私たちの貢献分をレベニューシェアでいただく形にチャレンジしたい。作家さんへの伴走サービスとして提供する場合、先行して持ち出しで負担を強いられるモデルは避けたいのです」
そして重要な点として、THE PEN側が著作権を主張することは一切ない、という原則を掲げている。あくまで作画の支援者という立場を貫き、作品の権利は完全に作家に帰属するモデルだ。
この構想の原点は、永井氏個人の原体験にあるという。
「2020年の東京五輪の開会式が、とても悔しかったんです」と永井氏は語る。世界に誇る日本のキャラクターが、権利問題の複雑さからほとんど登場しなかった現実にIP産業の課題を痛感。そんな折、親会社であったアマナが経営再建の一環としてアマナイメージズの売却を検討していることを知る。永井氏らは当初、同社が持つクリエイターネットワークと権利ビジネスのノウハウに着目していたが、対話を重ねる中で、長年膨大なビジュアルコンテンツを選び抜いてきた人材の「審美眼」こそが、IP産業の未来を切り開く鍵であると気づいたという。
しかし、その道のりは平坦なものではなかった。共同創業者である永井氏と飯塚文貴氏を含む関係者たちは、全員が前職を辞任し背水の陣で買収プロジェクトをスタートさせている。「無職のチームが、歴史ある大企業を買収する」というスキームに、VCからは何十社と断られ、一度は決まった銀行融資が判を押す当日に白紙に戻るという危機も経験した。チームの解散も頭をよぎったが、「コンセプト自体は絶対に意味がある」という確信だけは揺るがなかったという。その情熱が実を結び、2022年、ついに買収は実現したのだった。
そんな情熱家たちによって買収されたアマナイメージズとも連携するTHE PENは、単に漫画制作を効率化するツールにとどまらない。日本のマンガ産業が抱える構造的な課題に対し、作家の個性と権利を尊重しながら技術で向き合おうとする1つの構想といえるだろう。
サービスはまだ一般公開されておらず、その実力は未知数だ。この「オーダーメイドのAI」が、多忙を極める作家たちにとって真に信頼できるパートナーとなり得るのか。そして、業界や読者にどう受け入れられていくのか。その動向は、今後のクリエイティブ産業におけるAI活用の在り方を占う上で、注目に値するだろう。
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