「F・マリノスでプレーできることを感謝している」ジャン・クルード、最近のお気に入りは「あさり塩ラーメン」

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2025年12月04日 08:10  webスポルティーバ

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Why JAPAN? 私が日本でプレーする理由

横浜F・マリノス ジャン・クルード インタビュー 第4回

今のJリーグでは、さまざまな国からやってきた多くの外国籍選手がプレーしている。彼らはなぜ、日本を選んだのか。そしてこの国で暮らしてみて、ピッチの内外でどんなことを感じているのか。今回は横浜F・マリノスのトーゴ代表MFジャン・クロードに、日本にたどり着いた経緯や、この国の印象を聞いた。

【サポーターが歌ってくれるお気に入りのチャント】

 インタビューの途中で突然、ジャン・クルードが歌い出した。

「オー ジャン・クルード オー ジャン・クルード スーパーヒーロー フロム トーゴ ララララ ラララ ジャン・クルード」

 これは横浜F・マリノスのサポーターが、ジャンのために作ったチャントだ。1960年代のヒット曲『オー・シャンゼリゼ』のメロディに乗せて歌われるこのチャントについて、ジャンは白い歯を見せながら、こう語る。

「僕はUAEやウクライナでプレーしてきたけれど、日本に来るまでは一度も自分への応援歌を作ってもらったことがなかった。だからすごく気に入っているし、僕にとって特別な歌なんだ。

 僕のF・マリノスでのデビュー戦は、鹿島アントラーズとのホームゲームだった。僕はベンチ外だったけれど、ウォーミングアップを見たくて外に出たら、まずは観客の多さに驚いた。エージェントから日本ではどのクラブにもたくさんのファンがいると聞いていたけれど、F・マリノスは別格だね。これから一緒に戦っていくサポーターの姿を見ることができて、『がんばらないとな』と思ったよ。

 たくさんのファンが常にチームを支え、一緒に戦ってくれている。彼らはどこまでもついてきてくれる。最初の試合の日にマリノスファミリーの心強さを実感して、このチームのためにプレーするには大きな責任が伴うことも理解したし、全力で準備をしてがんばろうと決意したんだ」

 ジャンはいつどんな時も「チームを助けたい。そのために自分ができることをすべてやる」と話す。ありきたりのフレーズかもしれないが、これこそ彼の偽りのない本心であり、F・マリノスでプレーするうえで最大のモチベーションになっている。

 そして、日本こそが自分を成長させるために最高の環境だと信じて疑わない。

【「日本でプレーしたいなら、もっと真剣に向き合うべき」】

「9月にトーゴ代表合宿に参加した時、コジョ・ラバが『日本の選手はよく走るし、質が高い』と言っていた。彼はアル・アインで、今はサンフレッチェ広島にいる塩谷(司)とチームメイトだったことがあって、『あいつは練習でも試合でも抜群だ』と絶賛していたんだ。僕もUAEで実際に塩谷を見た時に、本当によい選手だと思った。両足を遜色なく使え、フィジカルも強い。試合の流れを的確に読み、状況に応じてどんなプレーをすればいいのか、深く理解している。

 日本の選手を軽く見るのはやめたほうがいい。多くの人々はその実力を正しく評価していないと思う。Jリーグも含めて日本人選手たちは、間違いなく世界最高のレベルにある。それはトーゴ代表のチームメイトたちにも正直に話している。

 時々、代表の仲間に『俺も日本でプレーできるかな?』と聞かれるけど、『それは本気か?』と返すようにしている。もし日本でプレーしたいなら、もっと真剣にフットボールと向き合わなければならない。決して偉そうに言っているわけではなく、Jリーグでプレーしていると『ここで2年間しっかりとプレーできれば、世界のどこでも通用する』と感じるんだ。

 仮にスペインやイングランド、ベルギーでプレーしてからJリーグに来ても、簡単には通用しない。ヨーロッパのサッカーを見るとスペースがものすごくたくさんあるけれど、日本ではスペースも時間も全然ないから本当に難しいんだ。多くの人々はそれを知らないから、正しい評価ができていないと思う」

 かつてはヨーロッパでの成功を夢見たが、F・マリノスに来て目標が変わった。日本で、可能ならF・マリノスでできる限り長くプレーしてタイトル獲得に貢献すること。「日本は第2の家になった」とまで言うジャンは、トーゴ代表の活動に参加するのがどんなにキツかろうと母国とF・マリノスのために戦い続けるつもりでいる。

「僕にとっては『リスペクト』がとても重要だ。リスペクトがない国に行くと、まるでその国と戦いに来たような気持ちになる。ウクライナにいた時は、レストランで食事をしているだけで人々がこちらをじっと見てきた。でも、日本では誰もそんなことは気にしないし、プライベートな領域を尊重してくれる。

こうした文化は本当に素晴らしいと思うし、僕も家族も幸せに暮らせているよ。それに僕は苦労してきたからこそ、プレーするならより良い場所を選びたい。それが日本を選んだ理由であり、決断は間違っていなかったと断言できる。

 もし僕にチームを助けられる可能性があって、必要とされるならF・マリノスという素晴らしいクラブで可能なかぎり、長くプレーしたい。最高のチームメイトやサポーターと共にタイトルを獲りたい。今や日本、そして横浜は、僕にとって第2の家と言える場所だから」

【「自分を信じて、自分を奮い立たせなければ」】

 ジャンと家族は日本での生活にもすっかり馴染んだ。アフリカ料理を食べられるレストランを見つけつつ、日本食にも積極的にトライしている。最近は、あさり塩ラーメンがお気に入りだという。

 エコノミークラスを何度も乗り継ぎ、片道24時間以上かかる移動を強いられたとしても、トーゴ代表とF・マリノスでの活躍を両立できる自信もある。ウクライナ時代は代表活動のたびに、隣国ポーランドまで陸路で移動してから空路でアフリカに戻らねばならず、過酷な移動も慣れっこだ。

 すべてはF・マリノスのために。「僕の人生においてサッカーは特別なもの」と語るジャンは、信念と感謝とともに走り続ける。

「時には誰かに背中を押してもらうのを待つこともあるけれど、本来それは間違いなんだと思う。まずは自分を信じて、自分で自分を奮い立たせなければいけない。そうでなければ、物事はうまくいかない。僕は一生懸命に努力してきた。自分に向かって『ジャン、君ならできる。プロサッカー選手になれる』と言い聞かせてきた。

 僕には家族がいるけれど、練習が終わっても食べ物を買うお金がなく、ただ家に帰るしかなかった時もあった。水がなくてシャワーしかないこともあった。アフリカではそんな厳しい環境が珍しいものではない。そうした環境は、強くなるために自分を信じて努力することの大切さを僕に教えてくれた。

 そして、僕には(ジャンが10歳の頃に他界した)お父さんがついている。僕の右足にも左足にもお父さんの魂が宿っていて、いつもボールを蹴る時に彼が助けてくれるし、いつもどこかから見てくれていると感じるんだ。僕を導いてくれた神様に、今、F・マリノスでプレーできていることに心から感謝して、これからもがんばっていくよ」

(了)

第1回 >>> Jリーグ史上初のトーゴ人選手、ジャン・クルードのタフな少年時代「サッカーで生きていく未来なんて...」

Jean Claude ジャン・クルード
2003年12月14日生まれ、トーゴ・ロメ出身。14歳で出場したU-17アフリカ・ネーションズカップで注目され、UAEのアル・ナスルのユースに引き抜かれ、そこでプロに。帰化を断ったことでファーストチームに居場所を失い、2023年9月からウクライナのゾリャ・ルハンシクへ期限付き移籍。翌2024年7月に横浜F・マリノスに完全移籍で加入し、驚異的なスピードや鋭い寄せで中盤を引き締めている。

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