【Jリーグ】セザール・サンパイオはボランチの概念を変えた 伝説の「天 皇杯優勝」は相棒・山口素弘との集大成

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2025年12月05日 07:20  webスポルティーバ

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Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第22回】セザール・サンパイオ
(横浜フリューゲルス、柏レイソル、サンフレッチェ広島)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第22回はセザール・サンパイオを取り上げる。このブラジル人ボランチは1995年の横浜フリューゲルス加入をスタートに、柏レイソルとサンフレッチェ広島のユニフォームにも袖を通した。3チームでJ1、J2合わせて200試合近くの出場を数えた。Jリーグ黎明期を代表する優良助っ人として、とりわけフリューゲルスで印象的な仕事をした。

   ※   ※   ※   ※   ※

 ボランチという言葉が一般的に広がったのは、Jリーグ開幕2年目の1994年だったと記憶する。ブラジル人のパウロ・ロベルト・ファルカンが日本代表監督に就任し、日本代表選手から「ボランチ」という言葉が聞かれるようになった。

 ポルトガル語でハンドルを意味する「ボランチ」は、それまでサッカーメディアで主流だった守備的MFと微妙にニュアンスが異なるものだった。では「何が違うのか?」というと、1995年に来日したサンパイオが体現してくれたのである。

 Jリーグ開幕前の守備的MFがもたらすイメージは、ディフェンスの局面でハードワークする、相手から奪ったボールを確実に味方につなぐ──というものである。攻撃面での貢献はそこまで求められず、DFラインの前でワイパーのような働きをする。「縁の下の力持ち」などといった表現もよく使われた。

 ところが、サンパイオは違ったのだ。

 ひと言で言えば、できることが多いのだ。ブラジル人のボランチだから、ボールを奪い取る力は確かなもので、そのうえで、奪ったボールを味方につなぐことも、自分で動かすこともできた。

【日本で点を取ることに目覚めた】

 1995年の来日当時は、27歳だった。1987年のワールドユースに後年Jリーグでプレーするアルシンドやビスマルクとともに出場し、1990年にブラジル代表に初招集されている。1993年と1995年のコパ・アメリカでは、ダブルボランチの「第1ボランチ」が着ける背番号「5」を背負った。

 フリューゲルスでのサンパイオは、第2ボランチの「8」を着けることが多かった。ブラジルでは「5」よりも、ゲームメイクなどへの関わりが強い番号である。「5」は日本代表で主軸を担うキャプテン山口素弘の番号だから、消去法的に「8」になったのかもしれない。

 それはともかく、フリューゲルスで「8」を着けることで、5番タイプだったサンパイオは8番の性格を少しずつ持っていくのである。

 加入1年目の1995年は32試合出場でノーゴールだったが、1996年は27試合出場で5ゴールを記録した。1997年は29試合で6ゴールをマークしている。勤勉にして効率的であり、「中盤のエンジンルーム」などと評された男は、極東に誕生したプロリーグでそれまで自覚していなかった才能──点を取ることに目覚めていったのだった。

 1998年シーズンを最後に日本から離れ、古巣のパルメイラスに復帰したサンパイオと、1999年秋にブラジルで会うことができた。リベルタドーレスカップを制して同年12月のトヨタカップで来日する彼に、首都サンパウロのホテルで話を聞いた。

 リベルタドーレスカップの戦いやパルメイラスについての話題が尽きると、会話は日本での思い出へ向かっていく。

 プレースタイルの変化について聞くと、「自分ではそこまで意識していなかったなあ」と話した。「もし僕が日本で攻撃的な資質を見せることができたのだとしたら、それは僕のとなりにいた選手のおかげだよ」

 サンパイオのとなりにいた選手──ダブルボランチを形成した山口である。このふたりの機能性と補完性は、Jリーグ30数年の歴史でも群を抜くと言って差し支えない。

【あの日の感情を表わすのは難しい】

 それはそうだろう。現役の日本代表とブラジル代表がコンビを組んだのだ。

 ふたりの連係はシーズンを重ねるごとに深まっていき、エバイールもジーニョも去った1998年にピークに達した。リーグ戦では年間7位にとどまったものの、天皇杯優勝を勝ち取ったのである。優勝とともにクラブが消滅した、日本のサッカー史に刻まれた清水エスパルスとの決勝戦に、サンパイオも出場している。

 行き先を決めていない雑談は、知らず知らずのうちに天皇杯へ向かっていった。「とても、とても、とても、印象に残っている。僕のキャリアで忘れることのできないものだね」と、サンパイオも特別な感情を吐露した。

「準々決勝で磐田に、準決勝では鹿島に勝った。その年のJリーグはファーストステージ優勝が磐田で、セカンドステージは鹿島だった。磐田にはリーグ戦でひどい負け方をしていたから(2試合ともに0-4)、天皇杯では何としても勝ちたかった。逆に鹿島にはリーグ戦で連勝していたから、油断せずに勝ちとらないといけないと思っていた」

 鹿島を1-0で退けたフリューゲルスは、清水エスパルスとの決勝戦に臨む。1999年元日の国立競技場は、それまでも、それ以降も決して漂うことのない空気に包まれていた。

「あの日の感情を表わすのは難しいね」と、サンパイオは難しい表情を浮かべた。オフ・ザ・ピッチでは天真爛漫な笑顔が印象的な彼が、表情から明るさを消した。それぐらい過酷な経験だったのだろう。

「清水に勝った瞬間は、もちろんうれしかった。タイトルを獲得できたんだからね。チームはなくなってしまうけど、これでフリューゲルスの名前が天皇杯という大会に永遠に刻まれる。それはとてもうれしくて、誇らしかった。同時に、このチームで戦う最後の試合だと思うと、うれしさよりも寂しさのほうが大きかった気がする」

 この試合を最後にJリーグから去ったサンパイオは、2002年に柏レイソルの一員として日本に舞い戻った。チームが混迷するなかでJ1残留に力を注ぎ、翌2003年は当時J2のサンフレッチェ広島に加入する。アルビレックス新潟、川崎フロンターレと最終節までJ1昇格を争った広島が、2位でのJ1昇格を果たす支えとなった。

 サンパイオに関わった選手に話を聞くと、その好漢ぶりが行列を成す。ブラジル代表として1998年のフランスワールドカップに出場したボランチは、誠実な人間性も含めて「ミスター・プロフェッショナル」と呼ぶべき存在だったのである。

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