ラグビー日本代表の「赤鬼」マコーミック 史上初の外国人キャプテンは当初2年で帰国するつもりだった

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2025年12月10日 07:10  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第39回】アンドリュー・マコーミック
(クライストチャーチ・ボーイズ高→東芝府中→釜石シーウェイブス)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載39回目は、ラグビー日本代表史上初の外国人キャプテン──「アンガス」ことCTBアンドリュー・マコーミックを取り上げる。顔を真っ赤にして体を張り続ける姿から、彼についた異名は「赤鬼」。東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)を日本選手権3連覇へ導き、日本代表でも不動のCTBとして世界と戦った闘将だ。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

   ※   ※   ※   ※   ※

 背番号「13」を背負い、桜のジャージーで世界へ挑んだその姿は、今もファンの記憶に鮮烈に刻まれている。だが、アンドリュー・マコーミックを語るうえで欠かせないのは、プレーだけではない。文化や言語の壁を越え、仲間と深くつながり、チームの精神的支柱となっていった、その人間臭い「軌跡」にある。

「ミステリアスで、未知の冒険だった」

 日本でのキャリアを、マコーミックはそう振り返る。

 ラグビー王国ニュージーランドで、祖父・アーチー、父・ファーガスも「オールブラックス」という、正真正銘のラグビー一家に生まれた。8歳から楕円球を追い、名門クライストチャーチボーイズ高校、地元アマチュアクラブのリンウッド、そしてカンタベリー州代表へと順調にステップアップした。

 しかし、あと一歩でオールブラックスに選ばれず、ワールドカップへの道が閉ざされる。「Away from Bitterness(苦しみから逃れたい)」。1992年、25歳のマコーミックは海を渡る決断をした。

【運命を変えた三洋電機戦】

 新天地の選択肢として、当初はイタリアや南アフリカを考えていた。だが、2歳上の盟友スコット・ピアース(現・狭山セコムラガッツHC)が日新製鋼でプレーすることを聞いて、日本でのプレーに興味を持ち始めた。また、東芝府中が外国人BKを探していたこともあり、引退後も会社で働けることも後押しとなって来日を決めた。

「環境はとてもハードだった」

 彼を待っていたのは、想像を超える世界だった。

 母国のような芝ではなく、硬い土のグラウンド。2倍はあろうかという長時間練習。通訳もおらず、意思疎通すらままならない。それでもマコーミックは逃げなかった。日本語教室に通い、グラウンド外でも積極的に仲間と杯を交わし、練習では改善点を主張した。その熱意は言葉の壁を溶かし、次第にチームの信頼を勝ち取っていった。

 転機は来日2年目に訪れる。社会人大会・準々決勝で三洋電機に惜敗(23-25)。その悔しさが彼を突き動かし、「東芝を日本一にする目標が果たせていない」と残留を決意する。

 しかし、日本一への道は険しかった。来日3年目の1994年度は副キャプテンとなって決勝まで駒を進めるも、神戸製鋼に14-37で敗北。さらに1995年度はついにキャプテンに就任してリベンジを誓うも、準決勝でサントリーに14-51の大敗を喫する。

「もっとボールを動かすべきだった」

 猛省したマコーミックは、チームを率いる向井昭吾監督とひざを突き合わせ、スピード重視の展開ラグビーへと舵を切った。

 その成果は1996年に結実する。再び決勝の舞台まで勝ち上がり、迎えた相手は三洋電機。3年前の悔しさを晴らすべく、マコーミックは展開ラグビーの中心選手として活躍し、ついに社会人チームの頂点をつかみ取った。

 続く1997年2月11日に行なわれた国立競技場での日本選手権決勝でも、東芝府中は「PからGo(ペナルティから即速攻)」を合言葉に大学王者・明治大を圧倒する。走り続けるチームの象徴としてマコーミックもトライをマークし、計11トライを奪う圧勝(69-8)で創部初の日本一を達成。ここから東芝府中の黄金期──日本選手権3連覇の偉業が始まった。

【平尾誠二がキャプテンに抜擢】

 そして、「東芝を常勝軍団へ変えた男」には、新たな使命が待っていた。

 1990年代後半、世界のラグビー界はプロ化の流れが加速。1995年ワールドカップのニュージーランド戦で歴史的大敗(17-145)を喫したように、日本は世界トップとの差をはっきりと突きつけられていた。

 そんな危機的状況のなか、1996年の香港戦でマコーミックは初キャップを獲得。さらに1998年、平尾誠二監督は「コミュニケーションの課題を補って余りある人格」として、マコーミックを史上初の外国出身キャプテンに指名したのだ。

 同年のアルゼンチン戦を44-29で快勝し、マコーミックは桜のエンブレムを胸につけて意気揚々と1999年ワールドカップ・ウェールズ大会へ挑んだ。だが、世界は甘くなかった。サモアに9-43、ウェールズに15-64、そしてアルゼンチンに12-33。納得のいく内容を残せず、3連敗で大会を去ることになった。

「日本人に欠けているのは『Self-belief(自分を信じきる力)』。『負けたけどいい試合だった』なんて概念は世界にはない。勝たなければ意味がない」

 この時の悔恨が、その後の彼の原動力となった。

 2000年に引退して東芝のヘッドコーチに就任するも、2002年に釜石シーウェイブズで現役復帰。2003年に再びブーツを脱いだあとは、コカ・コーラ、NTTドコモ(現・レッドハリケーンズ大阪)、大学、高校と、カテゴリーを問わず指導に情熱を注ぎ続けた。

 当初2年の予定だった日本での生活は、四半世紀を超えた。

「日本でのキャリアは、人生の中心」

 ラグビーという共通言語で、異文化を越え、仲間を鼓舞し、日本ラグビーの基準を引き上げた。アンドリュー・マコーミックの「魂」こそが、日本に残した最大のレガシーである。

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