
今年6月に逝去した長嶋茂雄氏。お別れの会が開催された先月11月21日に、『週プレNEWS』にて昨年8月より配信した連載「長嶋茂雄は何がすごかったのか?」をまとめた書籍『長嶋茂雄が見たかった。』が刊行された。
生で長嶋氏のプレーを見ることがかなわなかった、立教大学野球部出身の著者・元永知宏氏が、長嶋氏とプレーした15人の往年の名選手たちに「長嶋茂雄は何がすごかったのか」を取材してまとめたのがこちらの一冊。本著より長嶋氏の印象的なエピソードを時代に沿って抜粋し、5日間にわたって掲載する第2回。
【ショート・黒江は長嶋を見て「カッコいいなあ」】
1962(昭和37)年、"一本足打法"の王貞治が38本塁打を放ち、その翌年以降、40本、55本と本塁打数を伸ばしていった。1963(昭和38)年、長嶋茂雄は打率.341、37本塁打、112打点で4度目の首位打者と2度目の打点王を獲得した。
1962年に巨人に入団した柴田勲がセンターのレギュラーポジションを獲得したのが1963(昭和38)年。トップバッターとして打率.258、43盗塁(リーグ2位)という成績を残した。翌年には50盗塁を記録している。
その年のオフ、読売ジャイアンツは14年連続20勝、通算353勝(当時)の金田正一を国鉄(現ヤクルト)から迎え入れた。そして、1年後の1965(昭和40)年に始まったドラフト会議(新人選手選択会議)では、アマチュアの有望選手を指名し、チーム強化を図っていく。
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黒江透修(くろえ・ゆきのぶ)は、1936(昭和11)年2月生まれの長嶋よりも3学年下。鹿児島高校(鹿児島)を卒業したあと、杵島炭鉱、日炭高松、立正佼成会など社会人野球を経て、1964(昭和39)年シーズン途中に、巨人に入団している。
86歳になった黒江は笑う。
「僕がプロ野球に入る前、テレビをつければ巨人の試合が中継されていて、そこには必ず長嶋さんがいた。巨人はいいチームだったから、そこに入れることはうれしかったよね。
長嶋さんは"ミスタープロ野球"という呼び名にふさわしい、素晴らしい選手だった。サードの守備もうまかったし。見事だったのは、やっぱりグラブさばきだね。派手なプレーの印象が強いかもしれないけど、魅せるところと確実に捕る時があった」
黒江はプロ4年目の1967(昭和42)年にショートのレギュラーを獲得。翌年にはベストナインに選ばれた。
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「ショートを守りながら、『やっぱり長嶋さんはカッコいいなあ』と思うことがあったよ。本当にいいプレーヤーだった。昔の写真を見ても、本当に形がいい。絵になるよね。
隣のポジションにいるから、試合に勝ったあとにはじめに握手することが多かった。『ナイスゲーム』と言い合いながら。ミスター(長嶋)とは、そういう意味では、いい"ご近所付き合い"ができたね」
黒江が25歳で入団した時には、長嶋が名実ともに巨人のリーダーになっていた。
「王は僕よりも2歳年下(1940年生まれ)。僕は比較的、ミスターと年齢が近かったこともあって、ほかの選手よりも接する機会が多かった。後輩の僕が『付き合いやすい』と言ったらおかしいけど、ミスターも親近感を持っていてくれたんじゃないかな」
スター揃いのチームの中で、黒江が"中継役"に徹することでチームは円滑に進んでいった。
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「長嶋さんが『クロ、これをやろう』と言う時には、僕がみんなにミスターの意向を伝えるようにしていた。『ミスターの言う通りにやってみよう』と」
いつの間にか、長嶋の近くに黒江がいるのが当たり前になった。
「長嶋さんが何かを言ってくれれば、ほかの選手たちもやりやすい。用事がない時でも、なるべくミスターの近くにいるようにしていた。そうすれば、言いたいことを言えるだろうから。『長嶋さんのサインをもらって』と頼まれることも多かったしね(笑)」
黒江にとって長嶋は偉大なスーパースターであり、気の置けないチームメイトだった。
「後輩の僕が言うのはおかしいけど、いい関係だったと思う。相談に行ったらアドバイスをくれたしね。コーチの人も直接ミスターに話すよりも、僕を経由してメッセージを伝えることが多かった。『クロ、おまえからミスターに言っておいてくれよ』と」
スーパースターは孤独だと言われるが、長嶋のすぐそばにはいつも黒江がいたのだ。
【捕れる打球は全力で捕りにいく】
1945(昭和20)年7月生まれの高田繁が巨人からドラフト1位指名されたのは、1967(昭和42)年ドラフト会議だった。当時のことを、高田はこう振り返る。
「僕が入団する前に巨人はリーグ3連覇、3年連続日本一を達成していた。V4を目指すチームに入ることになったんだよね。そこから1973(昭和48)年までリーグ9連覇、9年連続日本一になった。
僕が入団した頃が一番、戦力的に充実していた時期じゃないかな? ファーストには28歳の王貞治さんが、サードに32歳の長嶋茂雄さんがいて、ふたりがクリーンアップを組んでいた。監督は川上哲治さん、チームとして完成していたよね」
高田が入団した時、ONのふたりはプロ野球を代表する看板選手になっていた。
「長嶋さんは1936(昭和11)年2月生まれだから、僕とは学年が10違う。僕が巨人に入った頃、長嶋さんは一番脂が乗りきっていたかもしれない。チームの中では年齢的に上のほうだったけど、ベテランというイメージはなくて、動きははつらつとしていたね。走塁のスピードがあったし、守備でもパパパッという切れのある動きをしていて、年齢的なことをまったく感じさせなかった」
プロ1年目の1968(昭和43)年からレフトのレギュラーポジションをつかんだ高田の目に、サードを守る長嶋の守備はどう映ったのか。
「とにかくスピードがあって、守備範囲も広かった。たたたっと投げる姿がカッコよくて、長嶋さんの後ろを守りながらほれぼれしてたね。見られることを相当に意識してやっていたんだろうと思う。あんな動きはほかの選手にはできない。昔の強打者は『打てばいいんだろう』という感じであまり守備に熱心と言えない人も多かったけど、長嶋さんはそうじゃなかったね。打つだけじゃなくて、守りも走りも素晴らしいスーパースターだった」
プロ1年目に打率.301、9本塁打、23盗塁を記録した高田は、V9という偉業を成し遂げるチームに欠かせない存在になった。
「もちろん、長嶋さんと王さんという、走攻守が揃ったふたりのスーパースターがいたから達成されたことは間違いないけど、9年連続日本一なんてことは、ひとりやふたりの力ではできない。長嶋さんがいて王さんがいて、ほかの選手たちがいて、そして監督の川上さんの存在が大きかった。もし、そのうちの誰かひとりでも欠けていたら、絶対に達成できなかったと思うよ」
小技もうまく、勝負強い高田は、ONの前の一、二番、時には彼らのあとを打つこともあった。
「前を打つ時はいつも『後ろにつなげれば絶対に打ってくれる』と思っていたね。これまで数えきれないくらい『長嶋さんのすごさは何?』と聞かれてきたけど、『期待に応えること』だと思う。ファンが『長嶋、頼むぞ』、味方が『一本打ってほしい』という場面で、必ずと言っていいほど打ってきた」
王と長嶋のところでチャンスをつくることが、V9時代の巨人の一番、二番打者の仕事だった。
「一番打者の柴田勲さんが塁に出れば、僕がバントや進塁打で二塁に送って『あとはお願いします』という感じだったから、二番打者としては楽だった。王さん、長嶋さんのふたりのうち、どちらかは必ず打ってくれたという印象が残っている。続けて打ち取られたことはなかったんじゃないかと思うくらいだよ」
ONの前に打席に立つことのプレッシャーもあったはずだが、高田はそれを感じなかった。
「よく『二番打者は大変なんでしょう』と言われたけど、そんなことはまったくない。チャンスをつくれば仕事は終わり。王さんと長嶋さんのおかげで、給料をもらっていたようなもんだよ、本当に(笑)。
繰り返しになるけど、あのふたりがいなければV9なんてできない。あれほどの技術、成績、人格も兼ね備えた強打者ふたりが並ぶことなんて、これから先もないだろうね。チームメイトはもちろんのこと、他球団の選手にも尊敬されるスーパースターだったよ」
第1回を読む>>>立教大学時代の後輩が証言する、長嶋茂雄の"ミスタープロ野球"以前

