来年度はスポーツのイベントが続く。そのたびごとチームや選手の礼賛に終始していていいのかは、検討が必要だ(写真:Adobe Stock) 本コラムはもともと「スポーツ全般を扱う」という建付けではあったが、日本社会における話題性の大きさもあって「野球」を主に扱うことが多かった。今回は年末ということもあって、日本社会で「スポーツ」というトピックをどう見るべきか、次年度への展望も兼ねて総論的に記してみたいと思う。近年の出来事をマクロ・ミクロ両視点で振り返りながら、あえて「憂鬱」な側面からスポーツをみるという視点を提示したい。
マクロなレベルで言うと、’25年はスポーツにとって「端境(はざかい)期」だった。来年2026年は2月にミラノ・コルティナ冬季オリンピック、3月には野球の世界大会ワールド・ベースボール・クラシック、そして6月からはサッカーW杯北中米大会と、スポーツ関連のメガイベントが目白押しとなる。
’21年の夏季東京オリンピックは、コロナ禍が収まっていなかった時期に「強行」開催されたことに対して日本国内から多くの批判が集まった。世界的な反オリンピックムーブメントが盛り上がり始めたのはそれより少し前の2010年代で、アメリカや西ヨーロッパの先進諸国ではオリンピック開催に伴う巨額の財政負担、再開発による都市「浄化」、開催後に残る「負の遺産」(使われない施設)への懸念から、住民たちによる反対運動が盛り上がった。
そのためスポーツ・メガイベントの重心はどちらかといえば西側先進諸国から、経済開発を強力に推進する国家へとシフトしつつあった(’14年のロシア・ソチ冬季五輪、’16年のブラジル・リオ夏季五輪、’18年のサッカーロシアW杯、’22年の中国・北京冬季五輪、サッカーカタールW杯など)。
今やスポーツメガイベントは西側先進国で開催される際でも、一都市、一国で完結させるより複数の都市・国にまたがって負担を分散させるトレンドに移行している。そのなかで’21年に日本が夏季五輪を東京メインで開催したことは、二重三重の意味で時流を外していたとも考えられる。個人的に東京オリンピックそれ自体も、選手や関係者にも「罪」があったとまでは言えないと思うが、開催によりスポーツ全体のイメージダウンに拍車をかけた面は否めない。
’21年の東京五輪開催時には財政負担や都市再開発の問題が持ち上がったが、私見ではそれ以上に開催を推進する政府側が「オリンピックをやれば経済的にも社会的にも、’64年東京五輪のような盛り上がりが再現できる」という効果を見込んでいたことが問題だったのではないか。いわば政府が「スポーツを通じて人心をまとめる」という、体育会系的な“気合い入れ”の効果を期待し、それが空振りに終わってしまったのではないだろうか。
’25年3月に刊行した拙著『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)でも論じたように、旧来型の「体育会系」思考の問題は今やあらわになっている。これまで日本のスポーツ界で幅を利かせてきた勝利至上主義(勝利や結果だけをひたすら求める)は、弱者や敗者を切り捨て、勝者に過剰なほどの名誉と報酬を与える。今やスポーツは、現実の資本主義の残酷性を極端に増幅させた戯画になっていると言ってもいいだろう。
一方でスポーツ・エンターテインメント産業は、停滞する日本経済のなかで数少ない成長産業でもあり、そこに雇用が生み出されている側面もある。スポーツの経済的価値が大きく上がっている一方、文化的価値は水面下で低下し続けているのではないだろうか。その象徴的な事例が、大谷翔平がロサンゼルス・ドジャースと交わした10年1000億円という途方もない契約と、いわゆる「大谷ハラスメント」(大谷の活躍がマスメディア・SNSをジャックし、他のトピックの扱いが小さくなる現象)への批判の声の噴出である。個人的に大谷の活躍は素晴らしいことだと感じているが、その社会的な副作用も大きくなっている。
◆スポーツのメガイベントがあるたび、礼賛を続けていていいのか?
とくに「体育会系」についてミクロな目線でみると、日本の若者のあいだでは「体育会系学生」(大学におけるスポーツ推薦枠もしくは体育系学部・学科への在籍者)が増加しているという指摘がある。これが従来通り「ひたすらスポーツでの成功を求める」アスリートが増加しているのなら問題かもしれないが、私はむしろスポーツビジネス関連職、もしくはトレーナーや理学療法士、ヨガ講師など、身体技法を活かしたケアワークへの従事を希望する学生が増えているのではないかと考えている。
生成AIの登場によりデスクワークを中心としたホワイトカラーの雇用が減少すると言われている。それと置き換わるかたちで人間の身体ケアに携わる「ケアワーク産業化」が、スポーツ・エンターテインメント産業のコミュニティビジネス化(プロチームを核とした地域でのスクールや育成事業など)と並行して進んでいくのではないだろうか。
とくにスポーツのメガイベントについては、「サッカー日本代表が活躍していてすごい」「日本出身のメジャーリーガーが活躍していてすごい」「推しているチームが勝って嬉しい」などと単純なスポーツ礼賛に終始するだけでは不十分ではないだろうか。現実のスポーツは一部のヒーローの活躍を「コンテンツ」として「消費」していればいいというものではもはやなく、私たちの生活や仕事と地続きのものである。
たとえば’24年から始まった、サッカー監督の河内一馬氏と元Jリーガーの井筒陸也氏によるPodcast『スポーツが憂鬱な夜に』は、スポーツのポジティブな側面だけでなく「スポーツにまつわる憂鬱」=勝利至上主義などの「負の側面」を語ることで支持を得ている。手前味噌ながら、同じく「スポーツにまつわる憂鬱」を論じた拙著もSNSなどでそれなりの反響を呼んだ。
スポーツや人間の「身体」が、経済的・社会的・文化的に大きなポテンシャルを秘めているからこそ、2026年以降はスポーツの「憂鬱」な側面を語っていくことがさらに必要になっていくのではないだろうか。スポーツを“好きでいること”と、“疑うこと”は、もっと多くの人が両立させてもいいはずである。
【中野慧】
編集者・ライター。1986年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部社会学科卒、同大学院社会学研究科修士課程中退。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。2025年3月に初の著書となる『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)を刊行。現在は「Tarzan」などで身体・文化に関する取材を行いつつ、企業PRにも携わる。クラブチームExodus Baseball Club代表。