写真 戦国から江戸時代の日本では、男性の名前に比べて女性の本名は謎に包まれている。豊臣秀吉の正室・寧々(ねね)や側室・茶々、さらには細川ガラシャに至るまで、当時の女性名にまつわる驚くべき実態を探る。
※本記事は、本郷和人著『日本史の血脈』より適宜抜粋したものです。
◆秀吉の正室の名は「ねね」ではなかったかもしれない
ここまで男性の名前を中心に論じてきましたが、果たして女性の名前はどのような変遷を遂げていったのでしょうか。
実は、女性の名前は、日本史でも非常に研究が難しい分野の一つです。
『源氏物語』の作者である紫式部の本名が伝わっていないように、当時の女性の多くは実名を表に出さずに生きていました。また、仮に名前が伝わっている場合でも、男性に比べれば厳密な史料は残っていません。
それは、どれだけ有名な人物でも同じことです。豊臣秀吉の正室である寧々も、正式な本名はわかっていませんが、本来の名前は「ね」であった可能性が指摘されています。
室町後期の宮中記録『御湯殿上の日記』には、宮中の女房たちの名前が記されているのですが、その名前を見ると「め」や「ね」といった平仮名一字で記す例が多い。これが愛称になると、名前が重なり「めめ」「ねね」などと呼ばれたようです。
また、現在では「〇〇子」という名前をつけられることは少なくなりましたが、当時は、上流の女性名には最後に「子」が付されるのが一般的でした。仮に朝廷から名が与えられる場合には「寧子」などと表記されていたようです。
◆秀吉に愛された側室の「茶々」は「茶」だった?
秀吉に愛された側室として有名な淀殿の名も、同様に複雑です。
彼女は通称「茶々」と呼ばれています。
本名かどうかは定かでありませんが、元の名前はただの「茶」であったのではないか。
徳川家康の側室の中にも「阿茶局」や「茶阿局」と呼ばれる女性がおり、「茶」という名は決して珍しいものではありませんでした。
この例を見ても、昔の日本では、女性の名前は種類がごく少なかったようです。
参考になる例が、琉球王国の女性の名前でしょう。
江戸時代の琉球の女性の名前は、ほとんどが「ナベ」と「ツル」という二つの名前で占められていました。ナベは沖縄方言で「ナビー」、ツルは「チル」となり、基本的に女性たちはそのいずれかを名としていたようです。
これと同じように、「茶」という名が女性にとって一般的な名前だったとすれば、淀殿のみならず、この名前が当時多く見られることも必ずしも不思議ではありません。
◆例外的な存在として挙げられるのが、細川ガラシャ
例外的な存在として挙げられるのが、細川ガラシャです。彼女の本来の名前は「たま」でした。「たま」も一般的な女性の名前ですが、彼女の場合は「たま」ではなく「ガラシャ」として広く知られるようになった。
キリシタンの洗礼名が珍しかったこともあるのでしょうが、女性なのに自分の名前が知れ渡るという非常に特異な例でしょう。