Jリーグ外国人最多得点者はセレソンでない無名FW マルキーニョスが15シーズンも日本で活躍できた理由

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2026年01月09日 07:10  webスポルティーバ

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Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第26回】マルキーニョス
(東京ヴェルディ1969、横浜F・マリノス、ジェフユナイテッド市原、
 清水エスパルス、鹿島アントラーズ、ベガルタ仙台、ヴィッセル神戸)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第26回はマルキーニョスを取り上げる。2001年に東京ヴェルディ1969に加入すると、7つのチームを渡り歩いて計15シーズンもJリーグでプレーした。J1通算333試合出場はフィールドプレーヤーでは外国人最多で、通算152ゴールは外国人最多にして歴代6位に食い込む。

 Jリーグにやってきたブラジル人選手はあまたいる。そのなかで、セレソンの経験を持たない彼が日本でずば抜けた実績を残した。そこにはやはり、明確な理由がある。

   ※   ※   ※   ※   ※

 1976年3月生まれの「マルキ」ことマルキーニョスは、25歳でJリーグデビューを飾った。母国ブラジルのコリチーバなどで実績を積み、2001年の第2ステージから東京ヴェルディ1969のユニフォームを着る。チームは第1ステージを最下位の16位で終えており、マルキは勝ち点奪取に直結するゴールが求められた。

 その期待に応えて、マルキは14試合出場でチームトップの8ゴールをマークする。10月末に追加登録されて5試合で2得点を挙げた同僚エジムンド──「野獣」と呼ばれた元ブラジル代表FW──が話題をさらったが、年間順位14位でのJ1残留はマルキのゴールがあったからこそだった。

 翌2002年はエジムンドが攻撃の柱となり、マルキのFWの序列を下げる。ヴェルディにはこのシーズンで別れを告げ、2003年は横浜F・マリノスの一員となった。

 元日本代表監督の岡田武史が指揮する名門で、マルキは久保竜彦と2トップを組む。特に第2ステージで貴重な得点を決め、最終節のジュビロ磐田戦では同点へ持ち込む一撃を決めてみせた。2-1の勝利をもぎ取ったチームは、第1ステージに続いて完全優勝(両ステージ制覇)を成し遂げ、年間王者に輝いたのだった。

【2008年には得点王&MVP受賞】

 2004年はジェフユナイテッド市原のユニフォームに袖を通す。韓国代表FW崔龍洙(チェ・ヨンス)に代わる得点源として指揮官イビチャ・オシムの信頼を勝ち取り、9月下旬まで14試合出場で12ゴールを記録する。しかし、左足アキレス腱断裂の大ケガを負ってしまう。直後に治療のためにブラジルへ帰国し、Jリーグでの4シーズン目は幕を閉じた。

 長期離脱を強いられたマルキだったが、翌2005年夏に再びJリーグのピッチに立つ。今度は清水エスパルスの一員として、東京ヴェルディ在籍時と同じシーズン途中の加入である。

 チームはJ1残留争いに巻き込まれつつあった。新加入選手のマルキにも、時間的余裕はない。高強度の試合から遠ざかっていたのは承知でも、ピッチに立ったその試合から結果を求められた。

 ここでマルキが、鮮明なる解答を出す。8月下旬のデビューから14試合出場でチームトップタイの9ゴールをもたらすのだ。しかも、得点した7試合の成績は5勝1分1敗である。J1残留圏ギリギリの15位でエスパルスがフィニッシュできたのは、マルキがいたからといっても過言ではなかっただろう。

 外国人アタッカーに求められるのは、得点やアシストである。数字こそが重要な評価基準となるが、マルキは加入からすぐに結果を残し続けた。新しい環境に素早くフィットする適応能力こそが、この男の最大の魅力にして真骨頂だったのだろう。

 そう考えると、2007年からの鹿島アントラーズでの成功は納得できるものがある。すでにJリーグで6シーズン戦っており、Jリーグと日本サッカーを十分に体感していた。鹿島にはラストパスの出し手がいて、マークを分散してくれる日本人アタッカーもいた。そして、勝者のメンタリティが息づいている。マルキが活躍する要因は、行列を成していたと言ってもいい。

 そのなかで確実に数字を残し、2007年から2009年のリーグ3連覇を後押しした。2008年にはキャリアハイの21ゴールを記録し、自身初の得点王を射止めた。リーグMVPとベストイレブンにも輝いている。

【1試合で仙台を去った理由】

 2008年のマルキは32歳。キャリアはピークを迎えているか、緩やかでも下り坂に差しかかっていた──というのは無意識な思い込みだったのだろう。2009年は13点、2010年は11点と、その後もふたケタ得点を稼いだ。世代交代の方針で2010年を最後に、鹿島を離れることになるものの、J1定着を目指すベガルタ仙台からオファーが届く。円熟期を迎えたマルキは、依然として「数字を計算できる」外国人助っ人だったのだ。

 ベガルタの一員として2011年シーズンを迎えたが、3月11日の東日本大震災の発生がマルキのキャリアを変える。「3.11」後も余震がある状況に不安を覚えた婚約者と家族が、ブラジルへの帰国を強く希望したのだった。やむを得ず、本当にやむを得ず、マルキは契約を解除した。

 ベガルタの選手としては、1試合しかプレーできなかった。それでも、当時の手倉森誠監督は「マルキが落とし込んでくれたものは大きい」と話した。日本でプレーすることで磨かれた献身的な守備は、堅守速攻のスタイルに鮮やかにフィットしていた。FW陣のよきモデルとなっていたのだった。

 2012年にF・マリノスに復帰すると、きっちりふたケタ得点をマークした。2013年には最終節まで優勝争いを演じたチームで16得点を記録。その後、2014年にヴィッセル神戸へ移籍。30代後半となってもその得点力は健在で、2シーズンにわたりヴィッセルの攻撃を牽引した。

 ゴール前での勝負強さは、最後まで衰えを感じさせなかった。得意とするパターンを警戒されても、瞬間的に違う答えを見つけ出した。ゴール前での冷静さこそが、万能型とも言われたプレースタイルの裏づけとなった。

 キャリアの最盛期を過ごしたアントラーズ在籍時に、マルキにインタビューをする機会があった。通訳が同席しているが、彼は日本語での質問をほぼ理解していた。

「日本では自分のプレーをそのまま出すことができています。自分の持っている技術と、少しの速さと、日本のプレーのリズムが、うまく合っているんじゃないかなと思います」

【マルキーニョスの思考回路】

 ここで一度、言葉を切った。ここからの話が、一番伝えたいことなのだろう。

「僕は試合に勝ちたい。負けたくない。そのために、何をすればいいのか。FWとしての僕は、点を取ることが仕事です。点を取るためには、シュートを打たなければいけない。

 じゃあ、シュートを打つために、どうすればいいのか。そのために、頭を使う。守備をすることだって、勝つために必要だからです。難しいことではありません」

 すべては、勝つために──。シンプルな思考が、ずば抜けたスタッツを作り上げた。

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