写真/産経新聞社’26年2月6〜22日、イタリアのミラノ、コルティナ・ダンペッツォで冬季五輪が開催される。93か国から3500人以上の選手が参加する。国としての参加が認められなかったロシアとベラルーシは、20人が個人資格の「中立選手」として参加するが、国旗の掲示は禁じられている。
ジャーナリストの森田浩之氏は、五輪はもはや“無条件に熱狂を共有できる祝祭”ではなく、その意義そのものが静かに問われる段階に入った、と指摘する。(以下、森田氏による寄稿)
◆ミラノ・コルティナ冬季五輪が開幕
ミラノ・コルティナ冬季五輪が開幕した……はずなのだが、序盤戦の空気はどこか静かに感じられないだろうか。
日本選手のメダルラッシュが、いまひとつだから? いや、盛り上がり切っていないのは日本だけではない。開催国イタリアでは観戦チケットが売れ残り、序盤の一部競技の分はセールに回された。開幕直前には新設工事中のケーブルカーが間に合わない見通しなど、準備の遅れが世界のメディアを賑わせた。
思えば、五輪はもっと威厳のあるイベントだったはずだ。どうしてこれほど熱量の低い凡庸な姿をさらしているのか。
五輪そのものへの「慣れ」が影響しているのは間違いない。東京、北京、パリと続いた近年の五輪は、新型コロナのパンデミックや政治的緊張、過度の商業主義への批判を抱えながらも、止まることなく開催されてきた。その結果、五輪は「止まらない巨大システム」と見なされるようになった。頻繁に開かれる巨大イベントなら特別感は薄れ、当然ながら熱も冷める。
おまけに今大会は欧州開催ということもあり、地政学の影がより色濃い。大会にはいくつか面倒な「注釈」が付く。例えばウクライナ侵攻を理由に国としての参加を認められていないロシアとベラルーシからは、国旗も国歌も持たない「中立選手」が計20人出場する。競技の場に政治を持ち込まないための措置だが、見る側には割り切れなさを残す。
◆大会序盤の静けさが意味するもの
ロシアの女子フィギュア選手アデリア・ペトロシャンも、中立選手の一人だ。18歳ながら国内選手権を3連覇している彼女が、国籍を消された形でいきなりメダル争いに加わる。この構図が五輪の「純粋さ」を損なわずに済むと言い切るのは難しい。
冬季五輪にはつきものとなった気候変動の問題も大きい。今大会では240万㎥もの人工雪が用意される。アルプスに人工雪を降らせる光景は、冬を祝う祭典というより、冬という季節に別れを告げる儀式だ。
こうした現実と建前のずれは、若い世代ほど敏感に感じ取るようだ。アメリカのZ世代で、’22年の北京冬季五輪をテレビで見た人は、その直前の東京夏季五輪より実に36%少なかった。
大会序盤の静けさは、失敗を意味するのだろうか。むしろ逆だろう。威信の低下や地政学的対立、環境への負荷など五輪が長年抱えてきた問題が、もはや感動の演出では覆い隠せなくなった表れとして、プラスに受け取るべきかもしれない。
ミラノ・コルティナ大会は、五輪は何のためにあるのかという問いを、さらに強く突きつけている。
<文/森田浩之>
【森田浩之】
もりたひろゆき●ジャーナリスト NHK記者、ニューズウィーク日本版副編集長を経て、ロンドンの大学院でメディア学修士を取得。帰国後にフリーランスとなり、スポーツ、メディアなどを中心テーマとして執筆している。著書に『スポーツニュースは恐い』『メディアスポーツ解体』など