関東大学リーグ1部・中央大所属の金田喜稔が、木村和司がいる同2部・明治大と試合するのが「嫌だった」ワケ

0

2026年03月05日 07:00  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

木村和司伝説〜プロ第1号の本性
連載◆第4回:金田喜稔評(4)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

 金田喜稔と木村和司は、ともに高校時代を県立広島工業高校(以下、県工)で過ごしたが、高校卒業後は金田が中央大学、1年後輩の木村は明治大学と、それぞれ別の大学に進んだ。

 しかも当時の明大は、関東大学リーグ2部。明大には金田と同級生だった小松治生もおり、たまに練習試合などで顔を合わせることはあっても、「基本的につき合いはないんですよ。ワシら、大学違うから」。

 金田曰く、「関東1部と2部って全然ちゃうやん」の言葉どおり、1部の中大にいた金田との接点がなくなっていくのは、仕方のないことでもあった。

 金田が苦笑いで振り返る。

「明大に行ったら、(サッカー部員は)もう汚い小屋みたいな寮に住んどるわけ。上がったら、靴下が真っ黒になるようなとこですよ。風呂もフ〜って(薪をたいて)沸かしてんだよ。『おまえら、どんな生活してるんや』って(笑)」

 一方、金田が通う中大は当時、文系全学部が東京都八王子市に移転したばかりで、「寮の風呂にはサウナがついてたし、芝(のグラウンド)で練習してたからね」。

「明大のことは、ようバカにしとった。だから、明大と(試合を)やりたくないわけ、土のグラウンドだし。明大とやるの、嫌やなって。でも、アイツら、あそこで耐えてやってきたんだなと思うと、それはすごいなと思うよ、マジな話」

 そんな環境が木村を精神的に強くしたかどうかはともかく、金田と木村は年代別日本代表で、再びチームメイトとして顔を合わせることになる。木村の1年先輩である金田が「ワシは早生まれ(1958年2月生まれ)だったから」実現した、再会だった。

「ワシはユース代表、(2世代にわたって)2年間やってたからね。早生まれのワシや園部(勉)が年上としていて、そこに川勝(良一)とかと一緒に、和司も入ってきた。やっぱり、そうだね......、その頃からじゃないの、和司は」

 金田が卒業し、木村らの代が最上級生になった県工は、全国高校サッカー選手権大会では広島県予選で敗れて、全国大会に出場できず。木村は檜舞台で、その名をとどろかせることはできなかった。

 加えて、進学先は関東2部の明大。当時の木村は、必ずしもスポットライトを浴びながら、花道を歩いていたわけではない。

 それでも木村は、明大入学後も順調に成長を続け、大学1年でユース代表に選ばれると、翌年、大学2年にして日本代表(A代表)に初選出されるのである。

 これには金田も、「うわ、コイツ、ここまで来よったな」と驚いた。

 金田は木村に先んじること1年、同じく大学2年の時に、すでに日本代表に選ばれていた。代表デビュー年の韓国戦で決めたゴールは、今なお日本代表の最年少得点記録(19歳119日)として残っている。

 当時は、今ほど大学生の日本代表入りが珍しいものではなかった。とはいえ、10代の大学生が続けて選ばれるとなれば、話は別である。

 木村の日本代表デビュー戦(ジャパンカップのフィオレンティーナ戦)の先発メンバーを見ても、大学生は木村ひとり。他に大学生は、途中出場した金田の名前があるだけだ。

 すでに日本代表で活躍している大学生が卒業後、日本リーグのどのチームに入るのか。その行き先は当然、注目を集めた。

 先に"就職活動"が始まったのは、1年先輩の金田である。

 その進路の最有力候補と見られていたのは、地元・広島の東洋工業(のちのマツダ)だった。県工のOB会からは、金田に対して強い勧めがあったとも聞く。

 だが、「誰が勝手に決めとんじゃ。ワシの人生は、ワシが決める!」と決意した金田は、「東洋工業に入ったら、また広島かよって......。大学から東京に来てたし、源氏鶏太のサラリーマン小説ばっかり読んどった人間からしたら、そりゃ憧れは銀座か、丸の内でしょ(笑)」と、"Uターン就職"を拒んだ。

「一応、中大のエースと言われる選手は、日立か、古河か、あの頃だったら、フジタとか、三菱とか、そういうところに行ってるんですよ、みんな。ということは、どこも中大の先輩がいるし、周りは日の丸組(日本代表で一緒だった選手)ばっかり。これは、絶対おもろない。また先輩と一緒かよ、みたいな。ワシはそんなん嫌やった」

 そんな時、金田に声をかけてくれたのが、日本リーグ勢のなかでは新興の存在である、日産自動車だった。

「日産に入ったら、先輩も日の丸組も、誰もおらんわけやん。(自分が)大将や。それが大きかったな」

 こうして大学4年生の金田は、監督の加茂周、コーチの鈴木保の熱心な誘いもあって、日産入りを決断する。

 ところがこの年、日本リーグ2部から1部に初昇格したばかりの日産は、1部最初のシーズンで最下位に終わってしまう。

 大学3年の時からほぼ2年がかりで県工のOB会を説得し、新興チームに入ることに納得してもらった金田だったが、「さすがに2部(に降格)だったら、入られんかったな」。

 結局、日産は2部優勝の東芝との入れ替え戦で勝ち残り、どうにか1部に残留。はたして、金田は無事、日産に入社するに至った。

 と同時に、これが木村の未来にも、少なからず影響を与えることになるのである。

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年〜2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

金田喜稔(かねだ・のぶとし)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高→中央大を経て、1980年にJSLの日産自動車入り。同郷で1年後輩の木村和司らとともに一時代を築く。大学2年生の時に初選出された日本代表でも奮闘。変幻自在のドリブルと独特なフェイントで攻撃の主軸を務めた。19歳119日という日本代表最年少得点記録を保持する。1991年に現役引退。以降、解説者、指導者として奔走し続けている。国際Aマッチ出場58試合6得点。

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定