50歳で「指人形」に出会ったサラリーマン→60歳で「指人形職人」に 谷中「指人形笑吉」店主・露木光明さん(79)

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2026年03月08日 11:10  web女性自身

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昔ながらの街並みが残る東京の下町・谷中。そこにたたずむ一軒家には、ひっきりなしに人が訪れる。迎え入れるのはもうすぐ80歳の指人形作家。人間そっくりな指人形たちが、楽しそうに踊って騒いで、観客たちを笑わせる。特徴的なのは、その登場人物が老人ばかりなことだ。



彼が「指人形笑吉」で生計を立て始めたのは60歳のとき。世間は定年、人生も後半。しわだらけの人形たちが、みんなに幸せを運んでいく──。



「この人形劇はほとんどパントマイムなんです。外国の方が見てもわかるぐらい簡単なんですよ」



小さな舞台に指人形がひょいと現れると、たちまち観客の顔がほころぶ。



東京都台東区谷中。観光客でにぎわう谷中銀座商店街へと続く通りから少し入った路地に、その一軒家はある。店先ののぼり旗には「指人形笑吉」の文字。ショーウインドーに並ぶのは、なぜか老人の指人形ばかり。



戸を開けると、さまざまな有名人の人形が所狭しと並んでいる。手をたたいて大笑いする明石家さんま、「アイ〜ン」をする志村けんさん、刀をさやに納めるビートたけし……どの顔も楽しそうに笑っている。



ひな壇の中央に設けられた小さな舞台では、赤ら顔の老人が、おちょこを掲げている。ぐい、と飲み干すしぐさ。泥酔しているのか、何度立とうとしてもこけ続ける。クスリ。



そこへとっくりを持ったもう一人が現れる。2人の酔っ払いが戯れ、お互いの頭を強くたたく。声はない。それでも、大きな笑い声が響き渡っていた。



簾の奥で人形を操るのは、露木光明さん(79)。指にはめた人形が、意思を持っているかのように動く。酔っ払いの強がりや照れ、情けなさまでも、指先から立ちのぼる。



一公演約30分。演目は『笑い上戸』『酔っ払い』『五十年後の「冬のソナタ」』『ウォーターボーイズ』など。一日6〜7公演をほぼ毎日こなす。観覧料は1人700円だ。



政治ネタはやらない。



「いろんな人が来るからね」



子どもも大人も、観光客も外国人も。誰もが笑えるものを見せる。それが露木さんの流儀だ。



「60歳から始めた商売なんですよ。だから、まだ19年かな」



さらりと言うが、60歳からこの道一本で生きてきた。



店内には工房もある。作業台には粘土や竹串、アクリル絵の具が整然と並び、制作の手順を静かに物語っている。



「これが頭の芯です。ここに粘土をつけながら形にしていくんです」



指先で粘土を重ね、まずは頭蓋骨を意識して土台を作る。



骨格が整うと、表情を彫り起こす工程に入る。竹串で細かく切り込みを入れ、わずかな凹凸をつける。粘土の塊が、いつのまにか“誰か”になる。



「いじってるうちに、生まれてくる顔なんですよ。作る前には予想していない顔。それが面白いんです」



老人の顔はしわもたるみも多いが、それが味になる。



「作りながら噴き出しちゃうこともありますよ」



十数分もすれば、人形の顔の大枠が完成する。



「なんか、いそうな人だよね」



露木さんの人生もまた、この人形たちのように、人生の後半になってからいっそう豊かな表情を帯び始めた。





■子どもたちに教えた指人形作りで衝撃の出会い。「あ、これだったんだ!」



’46年、終戦の翌年。露木さんは神奈川県藤沢市で生まれた。物心つくころには東京・浅草へ。やがて谷中へと移り住み、下町で育った。



戦後、父親が浅草で始めた婦人既製服の縫製工場は繁盛した。最盛期には住み込みの従業員が25人。自宅敷地内の工場にはミシンがずらりと並び、母は大勢の食事を切り盛りした。



「うちはね、ちょっと景気がよかった時代で、テレビを買うのも早かった」



浅草・光月町(現・台東区千束)。三社祭、ほおずき市、酉の市。祭りの多い町で、小学3年生までを過ごした。



「おとなしい子でしたよ。長男でね。よく“総領の甚六”っていうでしょ」



2人の姉と弟に挟まれた長男。活発な弟とは対照的に、ひたすら絵を描く子どもだった。幼稚園で描いたバンビの絵は、額に入れられ教室に飾られた。



「絵だけは誰にも負けないって、本気で思ってました」



だが、父は言い続けた。



「絵なんかで食っていけないぞ」



長男は家業を継ぐもの。自然と洋服屋になると思い込んでいた。



日本大学卒業後、家業を継いだ。時代は高度成長期。縫製工場は羽振りがよく、高級車を乗り回す同業者もいた。



26歳で結婚し、子どもも生まれた。しかし30代半ば、アパレル不況の波が押し寄せる。



「こんなに忙しい思いをしても儲からないなら、やめちゃおうって」



工場を閉じた後は、台東区根岸の縫製工場に再就職。高級ブランドのプレタポルテを扱う会社で、人事部長の肩書を持ちながら、裁断もミシンもこなした。



「そこで覚えた服作りが、いまの人形の服に生きてるんですよ」



会社勤めのかたわら、日曜は縫製工場の跡地で絵画教室を開いた。月謝は3千円。近所の子どもたちに、絵だけでなく粘土や紙細工も教えた。



「子どもの絵っていいんですよ。大人が思いつかない発想で」



自らも油絵を習い、展覧会にも出品した。しかし、周囲の作品がうまく見え、自分の絵がつまらなく思えた。



「自信がなくなっちゃってね」



50歳前後のある日。教室の工作で指人形を作ったとき、その面白さに衝撃を受けた。



「あ、これだったんだ!」



小さな顔にしわを描き、布で着物を仕立てる。指にはめると、まるで命が宿ったように動いた。



「人間を作ってるみたいで、とにかく面白かった」



絵では得られなかった手応えがそこにはあった。



「これなら人に負けない」



思い返せば、小学校低学年のころ。酉の市でひときわ目を引いたのも、笑う老人の指人形だった。



「面白くてしょうがなくて、どうしても欲しいと思ったんだ。あれが原点かもしれないね」





■アートイベントに出展して大人気!屋号「笑吉」の由来は初孫の名前候補



最初は並べるだけだった。陳列棚に老人たちをずらりと飾る。ほとんどがおじいさん。しわだらけの顔。



「老人のほうが、粘土が生きるんですよ。しわがね」



すぐに売れるわけではなかった。たまに1体、ぽつんと買われる。それでも、希望を持たずにはいられなかった。



「商売にしたい」



客の声に押され、おばさんも作り始めた。男物の地味な着物に比べ、女物は色もあでやかだ。棚が一気に華やいだ。



だが、家族は猛反対だった。



「食べていけるわけがない」



それでも、長女のひと言が背中を押す。



「お父さんも、出してみれば?」



娘が出展していたのは、東京ビッグサイトで開かれているアートイベント「デザインフェスタ」。露木さんの作品の写真を見た主催者は興味深そうに尋ねた。



「面白いですね。おいくつですか?」



50代半ばと答えると、さらに関心を示した。



会場での評判は上々。次は広い通路にブースを設置してもらえることになった。



ひな壇にずらりと並べた指人形。しかし、置いてあるだけでは指人形だと伝わらない。そこで、指にはめて動かしてみせる。



「こうやって動くんですよ」



客の顔がパッと明るくなる。ならばと、ひな壇の陰から声を出した。



「こんにちは!」



通りすがりの人が驚いて振り向く。確かな手応えを感じた。



それからは、谷中の店先でも人形劇を始めた。突然しゃべり出す人形に、足を止める人が増えていく。



「自分が面白いんだから、伝わるはず」



最初の演目は『笑い上戸』。続いて『酔っ払い』。2体が笑い合うだけで、客席が揺れた。



屋号「指人形笑吉」が生まれたのもこのころだ。初孫の名前候補に「笑吉」があったが、孫は「翔吉」と名付けられた。



「じゃあ、“笑う”の笑吉はもらっていいか?」



そうして屋号が決まった。



デザインフェスタでは上演時間になると黒山の人だかりができた。



「名物みたいになっちゃって」



人形は改良を重ねた。台座に針金を入れて、座らせたときでもポーズを変えられるようにした。そうすることで、頭と腕が動かせ、表情が豊かになった。



会社勤めを続けながら、日曜は人形劇。教室も続けた。



「50代はめっちゃ忙しかった」



写真に似せて作る「似顔人形」にも挑戦した。少しずつ、確実に客が増えていった。



転機はテレビだった。NHKの番組で特集されると、似顔人形の注文が一気に押し寄せた。



「5年分たまっちゃった(笑)」



そのとき、初めて確信した。



「これで食える」



会社を辞め、教室も閉じる。指人形を作り始めて10年。60歳だった。



(取材・文:服部広子)



【後編】黒柳徹子、ビートたけし、笑福亭鶴瓶も訪れた「谷中の人形劇場」…人気演目を生み出したのは「意外なモノマネ芸人」だったへ続く

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