
【前編】「埋蔵金の話になっても…」徳川慶喜家・第五代当主の主婦(57)が学生時代は「玄孫を隠していたワケ」から続く
「墓が遠い」「継承者がいない」などの理由で、「墓じまい」を検討する人が増えている。しかし、先祖とのつながりが消えることに抵抗感を持つ人も少なくない。
そんななか、歴史ある名家の墓じまいを決めた主婦がいる。愛知県名古屋市在住の主婦、山岸美喜さん(57)だ。美喜さんは、江戸時代最後の将軍・徳川慶喜の玄孫で、現在12家ある徳川家の中でも筆頭格に位置する「徳川慶喜家」の第五代当主。
「家を守るために、家をしまう。手放すことで得られるものはきっとあります」と語る彼女の決意は、武士さながら。女性当主への風当たりは強い。それでも、先祖の遺訓を胸に、前へ前へと進んでゆく──。
学生時代、ロンドンで国際船舶貿易について学んでいた美喜さんだったが、最愛の母・安喜子さんの死を経験する。そして、「徳川の文化や生活の中のしきたり」のバトンを安喜子さんから受け継ぐことになった。
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ようやく悲しみから立ち直り、再びロンドン生活を続けていた美喜さんは、’98年、のべ8年に及んだ英国生活を終えて帰国する。
「夫が名古屋の本社勤務となりまして、まずは会社借り上げのアパート暮らしから始まり、翌年、自分たちの家を、続いて長野県の蓼科に別荘を持ちました。それぞれでローンも組みました。互いの職業経験を生かしてイギリスへアンティーク家具の買い付けに行ったこのときが、夫婦でいちばん楽しかった共同作業かも(笑)」
専業主婦として生活し20年以上にもなる’14年1月、美喜さんのもとに一本の電話がかかってくる。
「叔父の食道と咽頭にがんが見つかったという知らせでした。母の弟で、私も子供のころからかわいがってもらって。親しみを込めて“アンクル”と呼んでいました」
当時63歳の叔父、徳川慶朝さんは慶喜公の曽孫であり、慶喜家の第四代当主。結婚歴もあるが、離婚後は、茨城県ひたちなか市で長く一人暮らしをしていた。
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「まず、抗がん剤と放射線治療ののち、13時間に及ぶ大手術がありました。叔父は独り身でしたから、私はこのときからビジネスホテルに泊まり込んで、付き添っていました」
退院後も、美喜さんは名古屋から慶朝さんの入院する茨城まで介護のため、毎週のように新幹線と長距離バスなどを乗り継いで通うようになる。
「ですが、周囲の親戚などから『徳川の名前が欲しいからやってる』『だろう』という声がありました。私はただただ、大好きだったアンクルのそばにいてあげたかっただけですのに」
■手放すことで得られるものはある。私の家じまいは、“現代の大政奉還”
「美喜ちゃん、あとはよろしくね」
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約4年に及んだ美喜さんの懸命の介護のかいもあり、がんは寛解した慶朝さんだったが、この言葉を残し、’17年9月25日、虚血性心筋梗塞により67歳で生涯を閉じた。
「生前の叔父とは、互いの価値観を共有する宝物のような時間を過ごせました。高松宮御殿の思い出話などは、同じ体験をした2人だからこそできたと思います。また、フリーカメラマンでのんびりとした性格だったアンクル。徳川家の交流会などとも距離を置き、周囲から“徳川の男っぽくない”と思われて、親戚から軽んじられるなど、悔しい思いをしていたことも伝わりました」
しかし、思い出に浸る時間はなかった。慶朝さんは正式な遺言により、親族には男子がいるにもかかわらず、姪の美喜さんを第五代当主に指名。さらに遺言書には「(一部史料等を除き)すべての財産を寄贈する」と書き残していたのだ。
「介護の日々を通じて、信頼してくれたのだと思います。また私が女性で、『結婚して徳川姓でなくなったことで家を閉じやすいのでは』といった話を、叔父がしていたのも覚えています。叔父は生前から、絶家について弁護士にも相談していたのですが、長く病床にあって、自分では実現できなかったのでした」
こうして一気に「徳川家」の当事者となった美喜さんは、以降、想像すらしなかった事態に巻き込まれていく。最初は、まさに叔父・慶朝さんの葬儀だった。
「一部の親戚から『山岸美喜が喪主になるのはおかしい』との声があがったのです。そのため私は葬祭責任者として末席に座り、挨拶もなしとして親族へ配慮しました。遺言に従い、参列者も10人ほどの質素な葬儀でした。遺言書では祭祀継承者の指名はなく、ここから、絶家に関わる手続きを一つ一つ積み重ねていくことになります。親族の説得には8年かかりました」
美喜さんには、絶家にあたり「6千点ともいわれる膨大な史料整理」と「墓じまい」という大きな2つの役目が課せられたが、この祭祀継承権を持たなければ、法的にも墓の移転や整理はできないのだった。
「祭祀継承者は、徳川の歴史の中でも初めてのことでした。私自身、第五代当主になって改めて気付かされたことも多いです。それまでは普通の専業主婦でしたが、当主となってから家にあったアルバムを見返すと、大好きだった和子おばあちゃまが赤ちゃんだった母を抱く古い写真があったりして。“私の母も歴史の中にいたんだ”と実感しました」
やがて、その歴史の流れに自身の存在を再認識するようになる。
「寄贈などについて学芸員や関係者の方たちと話をするなかで、うちのアルバムや母から受け継いだ私の着物なども大切に保管していくべきだと改めて思うようになったのです。しかし、ある学芸員からは、『いまどきこうした着物を古着屋さんに持っていっても二束三文なんですよね』と言われ、家族の歴史を踏みにじられたような思いをしたこともありました」
悔しい体験は、ほかにも多くあった。
「私が博物館などに『慶喜家に伝わる史料数千点の寄贈を検討しているのですが』と持ちかけても要領を得ず、その場で断られたり。史料すべてを寄贈しようと働きかけていた歴史館の式典では、私への招待状の送り忘れ、さらにはいちばん後ろの席となっていたり。『もし私が男性で、徳川姓だったなら』と思ったことは数知れません」
もっとも近しいはずの親族との関係さえ、以前とは一変した。
「徳川ではない実の父から、祭祀継承権をめぐり裁判を起こされそうになったり、上の兄とも疎遠になってしまいました。幼いころかわいがってくれていたおじさまが突然、『徳川の墓は男の私が継ぐべきで、そのためにはお金がかかるから遺産を受け取りたい』と言ってきたときは、本当に深く傷つきました」
当時の美喜さんについて、夫の直人さんが語る。
「彼女は心身をすり減らして奮闘していました。私は見守る立場でしたが、いつも思っていたのは、ほかの徳川の親族や頼りになるはずの男性らは、自分たちのことなのにどうして手を貸してあげないんだろう、ということでした」
当の美喜さんは、活動の過程でさらに信念を固めていく。
「絶家に関わる一連の行動には、叔父の遺言と、徳川の家を守るという明確な目的があります。史料も墓も私たちの手は離れますが、国や博物館などしかるべきところにお任せすることで、パブリックなものとしてこれからも多くの人たちに接していただき、覚えていてもらえることになります。手放すことで得られるものって、あると思うんです。慶喜の大政奉還も、政権を返すことで日本を守った。私のやっていることも、その意味で“現代の大政奉還”と捉えています」
そして前述のとおり、昨年10月27日、Xにて祭祀継承者として正式決定した旨と、改めて絶家の宣言が行われた。「よくぞ決断なさった」「うちも人ごとではない」といった共感の声とともに、「歴史ある名家を途絶えさせていいのか」「なんとか存続を」といった厳しい意見も多く寄せられた。
これまでも否定的な投稿や親族との軋轢もあったが、常に真摯に受け止め、最善策を模索してきた美喜さん。「私、メンタル強いんです」とほほ笑みながら話すが、いつも前向きでいられる原動力とはなんだろうか。
「幼いころ、男性上位の考えの強い父のため、母が苦しむ姿を見たり、私も女であることで兄たちに比べて見下されているのも感じていて、実は自分に自信が持てない子でした。
男女平等社会とはいえ、きっといま、各家庭で介護や家の整理をしている主婦や女性たちも、私と同じモヤモヤを感じているのではないでしょうか」
さらに「主婦」の強みについて、語気を強める。
「もう物事をあいまいにはせず、正義と平等の心で判断しようと決めました。専業主婦でしたから、それこそが強みだったと思うんです。職業や肩書がない分、いろんなことや人をフラットに見ることができたんですね。徳川家だから偉い、なんてことはもうないです。その考えでいけば男女も関係なく助け合うべきなんですが……徳川家の男はポンコツだらけですから(笑)。関係者との話し合いでも、私はしっかりメモや録音を取ったりしていて、最後には論破してしまう。さぞ、かわいくない女だろうと思います(笑)」
常に胸にあるのは、慶喜公や叔父が大切にしてきた「愛情と思いやりをもって人と接する」という姿勢や、家康公の「怒りは敵と思え」の遺訓である。
「家じまいは、終わらせるための作業ではなく、徳川の家の歴史を続けるためなんです。いつか私が天国に行ったとき、慶喜やアンクルから『美喜、よくやった』と言ってもらえることを楽しみに、自分らしく進めていきます」
■主婦の強みを存分に発揮して「やるなら、とことんやりたい!」
「およそ6千点の史料の中には、慶喜が大切にしていた父・烈公(斉昭)からの手紙や、明治天皇からの桜を見る会の招待状などもあります。寄贈先については、国立博物館の方々と弁護士の先生を交えて調整中です。わが家に残されていたのは、いわば一次史料。私は風景写真一枚にも家族の物語があると考え、どんな状況で撮られたかまでを伝えるため、寄贈の際にはすべての史料の受け渡しに立ち会うことを心がけています。それが6千点ですから、どれほどの時間がかかるかわかっていただけると思います」
谷中霊園への取材から数日後、名古屋市内の自宅で、史料整理の進捗状況について語る美喜さん。墓じまいについても、
「祭祀継承権は上野東照宮にお渡しすることになると思いますが、多額の負担をおかけするには忍びなく、何かしらの形で、多くの方のご協力をいただけないかと考えています」
祭祀継承者になってからは、さまざまな講演依頼や、雑誌・新聞の取材、本の出版に加え、’19年から始めたクラシックコンサートの企画事業を行う「バーナード・プランニング」代表としての顔もあり、まさに超多忙な日々を過ごしている。
「やるならとことんやりたいタイプです! 祭祀継承者となって多くの出会いもありましたが、そこからまた違う世界が広がるのが楽しみです。思いがけず多忙な毎日ですが、先日も疲れ切って帰宅したとき、旦那さんが『シチューができてるよ』と言ってくれたときは、本当にホッとひと息つけました」
隣で聞いていた直人さんは、
「彼女は人好きと言っても、交渉などで誰かと初めて会うだけでも疲れると思うので、せめて家庭にいるときは、僕の料理でゆっくりしてもらえるとうれしいですね」
いまも自宅に保管されている思い出の品々や、母親の安喜子さんから引き継いだ着物などを前にして、美喜さんは言う。
「母の着物は、まだ手放す時期を決められていません。私には史料ではなく、遺品なんですね。慶喜に関しては、現在も『江戸幕府を潰した裏切り将軍』などというネガティブな評価もあり、その名誉回復もしたいです。次期当主についても、誰かを指名しても、その人が金銭面はじめ苦労するのは目に見えていますので、いたしません。私には子供もいませんし、それが時代に合った自然の流れだと思っています」
取材最後の撮影では、40代で始めたというチェロを演奏してくれる場面も。名曲のメドレーに聴き入っていたが、突然曲調が変わり、あの徳川光圀(家康の孫)が主人公のテレビドラマ『水戸黄門』の耳慣れたテーマ曲になった。
「日本中が好きな元気になれる曲ですよね(笑)。私も元気に、これからがスタートという思いで前に進んでまいります」
持ち前の明るさと信念で突き進む、徳川慶喜家最後の女当主。その家じまいから目が離せない。
(取材・文:堀ノ内雅一)
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