
Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第37回】アマラオ
(FC東京、湘南ベルマーレ)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。
第37回はアマラオを取り上げる。Jリーグ開幕前夜の1992年に来日し、FC東京の前身である東京ガスを含めて、実に12シーズンもの長きにわたってクラブのためにゴールを取り続けた。クラブをJ2からJ1へ押し上げ、J1に定着させたこのブラジル人ストライカーは、FC東京の歴史の大切な一部である。
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ヨーロッパや南米には、選手の名前を冠したスタジアムがある。
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オーストリアで20世紀のビッグマッチの舞台となってきたプラター・スタジアムは、同国の名将エルンスト・ハッペルを称える。アムステルダム・アレナとして開場したアヤックスのホームスタジアムは、ヨハン・クライフ・アレナと呼ばれる。
アルゼンチンではワールドカップ優勝をもたらしたふたりのスーパースター、ディエゴ・マラドーナとマリオ・ケンペスの名前が使われている。どちらも彼らが在籍したクラブのホームスタジアムで、ケンペスの出身地コルドバにあるエスタディオ・マリオ・アルベルト・ケンペスは、スタンドにも選手名をつけている。そのひとりは、Jリーグで4度監督(清水エルパルス、横浜F・マリノス、東京ヴェルディ、町田ゼルビア)を務めたオズワルド・アルディレスだ。
クラブにその身を捧げてくれた選手の功績を、スタジアム名として称える。長い歴史が育んできた素敵な文化だ。
FC東京のホームゲームへ行くと、だから僕は心地よくなる。『KING AMARAL STADIUM』の横断幕を目にすることができるからだ。ヨーロッパや南米のカルチャーが、そこに息づいている。
【来日8年目で初めてのJ2】
アマラオは1992年に来日した。「すぐにホームシックになったよ」と聞いたのは、当時の苦労を笑いながら振り返ることができるくらい時間が経った頃である。
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ブラジルではサンパウロ州の名門パルメイラスの一員だったのだから、極東の企業チームの環境は息苦しさを覚えるものだったに違いない。「ブラジルに帰ろうと思ったこともあったよ」と話して、「一度だけじゃなく、何度もね」と言い添える。20世紀に生きているのに、モノクロの世界へ飛び込んだような気分だったのかもしれない。
アマラオが日本でのキャリアをスタートさせた1992年は、Jリーグのプレ大会としてナビスコカップが行なわれた。並行して日本代表がアジアカップやアメリカワールドカップ・アジア予選を戦い、1993年5月のJリーグ開幕を迎える。JFLで戦う東京ガスとアマラオを取材する機会は、ほぼなかった。
ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の関浩二が移籍したとか、高校選手権で活躍したGK堀池洋充が大卒で加入したといった情報が、僕自身と東京ガスのささやかな接点だった。アマラオが旧JFLでゴールを量産している情報を得ていても、そのプレーがどれほどのものなのかを知ることはできていなかった。
アマラオのプレーを初めて見たのは、1999年のJ2リーグである。東京ガスは1998年にFC東京となり、J2初年度のリーグに参戦していた。
アマラオは来日8年目を迎えており、1999年のシーズン開幕時点で32歳である。彼のキャリアの絶頂期を、僕は見逃してしまったのかもしれない──ずっとそう思っていたのだが、1999年のJ2で見たアマラオも、2000年以降のJ1で見た彼も、年齢を感じさせない卓越したストライカーだった。
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シュートは強烈だった。GKがセーブしているのに、弾き出せないようなシュートを見せつけられた。
ヘディングシュートが力強かった。PKスポットあたりでインパクトしたボールが、ゴールの隅へ勢いよく突き刺さるのである。上半身をグンとひねるシュートフォームがまた、ストライカーらしい躍動感にあふれていた。
シュートの前段階として、落下点を読みきる眼を持っていた。DFの前へ飛び込んでフィニッシュすることも、DFの間でパスを受けることも、DFの背中を奪ってゴールへ流し込むこともできた。
【9年連続でふた桁得点を記録】
そしてアマラオは、チームメイトへの思いやりにもあふれていた。同時期にプレーしたケリーやジャーンを、ピッチ外でもサポートしていた。
ブラジル人フットボーラーは、誰もが負けず嫌いだ。アマラオも闘争心が旺盛だった。J1でもJ2でも、国立競技場でもこぢんまりとしたスタジアムでも、いつだって全力でプレーしていた。
彼自身に聞くと、「自分たちを応援してくれる人たちと、試合に勝った喜びを分かち合いたいんだ」と言った。「サポーターの人たちが自分を愛してくれていることを、いつも感じることができたからね」とも。
サポーターとの強いつながりを、感じていたからなのだろうか。外国籍の助っ人でありながら、日本人選手のような献身性や忠誠心を感じさせた。旧JFLやJ2だけでなく、J1でもふた桁得点を記録していったのは、ストライカーとしての卓越した技術やゴールセンスはもちろん、チームの勝利に対する責任感の表われだったのではないかと思う。
1994年の旧JFLから2002年のJ1まで、9年連続でふた桁得点を記録しただけでも驚異的である。それだけでなく、そのうち8年が15ゴール以上なのだ。チームメイトから絶対的な信頼を寄せられていたのと同時に、対戦相手に脅威をもたらしていたのだろう。
目の前のゴールチャンスを逃さず、ディフェンスでハードワークもして、勝利の可能性を1パーセントでも高める。ジーコやドゥンガと同じように、「キング・オブ・トーキョー」と呼ばれた男もまた、プロとしてのスピリットを体現したのである。
チームを愛し、サポーターを愛し、チームとサポーターに愛された。日本のサッカー文化がもっともっと成熟して、スタジアムを改修するようなタイミングが巡ってきて、スタジアムに選手の名前を冠する動きが出てきたら──ネーミングライツされたスタジアム名に選手の名前を組み合わせる例もある──アマラオの功績をあらためて讃える好機の到来になるはずだ。
