2026.2.13/東京都千代田区の如水会館にて【神田一ツ橋発】国際派の経営学者として、長年、ハーバード・ビジネス・スクールや一橋大学で教鞭をとられてきた竹内弘高さんは、ほとんど偶然ともいえるさまざまな人との出会いが自分の人生を豊かにしたと語る。そして竹内さんが大事にされているのは「義理と人情と浪花節」。若い教え子たちには、これを「GNN」と称して伝えている。GNNはユニバーサルかつオールマイティで、かのマイケル・ポーターにも通じたという。「英語がうまい日本人」でも、スピリットは大和魂なのだ。
(本紙主幹・奥田芳恵)
その他の画像はこちら●小学校1年から英語漬けの日々
今でも日本と米国を行ったり来たりされているとのことですが、とてもアクティブでいらっしゃいますね。
ええ、最近も妻と米国のウエストコーストを旅してきて、1週間前に日本に帰り、その翌日は野沢温泉でスキーをしていたんですよ。
スキーは昔から?
私の父は、1956年の冬季五輪で猪谷千春さんが今年と同じコルティナで銀メダルを取ったことをきっかけにスキーに熱中するようになり、私も小さな頃から志賀高原や赤倉温泉に連れていかれて教えられました。それ以来、ずっとスキーは続けています。
お父さまはどんな方でしたか。
指輪やブローチのデザイナーで、自分がデザインしたものを職人さんに作らせて、それを銀座の店で売っていたんです。
モダンというか、独創的なお父さまだったのですね。
英語がまったくできない父は「これからは英語だ!」という信念を持っていて、私は小学校のときから横浜のインターナショナルスクールに通わされました。
小学生が、東京から横浜まで通学するのはなかなか大変ですね。
片道1時間半かかりました。当時、インターナショナルスクールは全国に数校しかなく、東京には日本人を受け入れている学校はありませんでした。インターナショナルスクールは9月入学ですから、その年の4月から3カ月間、英語の個人レッスンをみっちり受けて準備したんです。
小学校1年生から、英語漬けの生活が始まったのですね。
私が通ったインターナショナルスクールは、30人ほどのクラスに日本人は5人くらいしかいません。そういう環境で12年間学んだため、今でもメールや本の原稿は全て英語で書きます。英語は単純だから、日本語で書くよりもずっと速く書けるのです。
英語には「行間を読む」ような表現はないですものね。
それで、父親からは米国の大学に留学するように厳命されていたのですが、私はあるきっかけで、現在理事長を務める国際基督教大学(ICU)に進みたいと思うようになったのです。
それはどんなきっかけですか?
高校3年のとき、64年の東京五輪でIOCの通訳をしたことです。当時、私の父は日本馬術連盟の役員を務めていたのですが、そのつてで馬術競技の通訳ボランティアをすることができたのです。
その時期には、もう英語はペラペラですものね。
馬術競技の通訳は24人いて、そのうち22人はICUの学生でした。そこに私が加わったというわけです。
大学生のお兄さんやお姉さんの中に、高校生が一人参加したと。
馬術のクロスカントリー競技は軽井沢で行われたのですが、私たち通訳も軽井沢の万平ホテルに3週間泊まり込みました。ICUはリベラルアーツの大学ですから、大学生たちが哲学の話とかしているんですね。それで、こういう教養のある大学生になりたい、なんとしてもICUに入りたいと思うようになったんです。そして、ICUしか受けませんでした。
●今でも残るバークレーの仲間との友情
お父さまとの米国留学の約束は?
父は激怒しましたね。どうしてそんな病院みたいな名前の大学に行くんだと(笑)。それで、大学院は米国の大学に行くからと約束して、なんとか納得してもらいました。
ICUでの学生生活はいかがでしたか?
私はインターナショナルスクール出身のため9月に入学したのですが、9月生は30人だけでそのほとんどが帰国子女でした。その内訳は女性25人、男性5人と、男性にとってこんなに好条件はありません。その25人の女性の中に今の妻がいたんです。昨年、入学初日に出会ってから60年のお祝いをしました。
すてきですね。
そして学生時代、もう一つの転機となったのが、ICUでの3年目に交換留学でカリフォルニア大学バークレー校に行ったことです。68年当時は学生運動の真っ盛りで、キャンパスは封鎖され留学に応募する学生は他にいませんでした。前年まではサンタバーバラ校への留学だったのですが、私は本校であるバークレー校に行きたいと大学に申し入れたら「それなら自分で交渉しなさい」と。そこで交渉してみると、あっさりOKが出てバークレー行きが決まったのです。
20歳そこそこなのに、すごい行動力と交渉力ですね。
先ほどウエストコーストを旅したと言いましたが、その途中でバークレーに立ち寄り、当時の寮仲間13人との集いに参加しました。実は2年に1回ほど、こうした集いを続けているのです。
60年近く前に出会ったお仲間と、そうしたお付き合いが残っているというのは驚きです。
当時はバークレーも学生運動が盛んでした。でも、彼らには茶目っ気もあって、ストリーキング(裸で町を走ること)やバルーンショット(上階から歩いている人をめがけて水の入った風船を落とすこと)が流行っていたんです。
子どもみたいじゃないですか(笑)。
今となってはいい思い出ですが、もし風船が本当に人に当たったらタダではすまなかったでしょうね(笑)。
そんなことをしながらも9カ月ほど勉学に励んで私は日本に戻るのですが、当時の寮仲間の全員が将来、ビジネススクールやロースクールなど大学院に進学すると聞きました。日本で大学院に進学する人はとてもわずかでしたから、そこにギャップを感じましたが、私もバークレーに戻ってビジネススクールで学ぼうと決意し、仲間に約束したのです。
ICU卒業後の青写真が見えてきたのでしょうか。
東京とサンフランシスコに支店を持つ多国籍企業10社を図書館で調べてリストアップし、手紙を書きました。自分は2年後か3年後にバークレーに戻って勉強したいが、お金がないので御社の東京支店で働き、その後はサンフランシスコの支店でアルバイトをして学費を稼ぎたいと。
そういうお手紙に、企業からの反応はあったのですか。
驚くことに、10社中6社から返信がありました。もっとも、そのうち2社は「そんなこと、知ったことか」という内容です。でも、4社が「日本に帰ったら誰々に会ってみろ」と言ってくれたのです。
それはすごい!
帰国して訪問したのは、最初に返事をくれたマッキャンエリクソン博報堂(現マッキャンエリクソン)という広告代理店でした。(つづく)
●趣味のアロハシャツと野中郁次郎先生からいただいた木刀
竹内先生はアロハシャツのコレクター。ご自身の分は79枚(年齢を超えた枚数を持ってはいけないそうだ)あり、その他にコンテストの賞品などで学生さんや会社員などにプレゼントする分もその倍ほど保有されている。なんとウラハラ(裏原宿)の古着屋で仕入れることも多く、宝探しのようで楽しいとのこと。野中先生の木刀については、次週の記事をご参照いただきたい。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
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※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。